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理念・理想文書

「命の意味」

2024年10月09日

私がある教室で次のような話をしました。

仏陀は与えることは取られることではない。与えることは豊かになることだ。

 財施:財があるものは財を与えなさい 財のないものは次のものを与えなさい

 和顔悦色施:心からの笑顔を与えなさい

 眼施:柔らかいまなざしを与えなさい

 言辞施:優しい言葉を与えなさい

 心施:心を与えなさい

 身施:自らの身体で奉仕しなさい

 場所施:居場所がものに居る場所を与えなさい

 房舎施:寝る場所を与えなさい

 法施:真実の心を与えなさい

するとある男性が
「私は今まで何をしても成功しなかった。生きていても役に立たない者だと感じていました。しかし今の話を聴いて、わたしでもできることがあると思いました。笑えること・笑顔を与えることで相手に役立てることが分かりました。」

※障碍者は生きている価値が無いと考えて排除する人の犯罪がありました。その障碍者が家族や友人・介護者に笑顔を与えることでどれだか周りの人に幸福を与えているか、人間の命の尊厳 命があるだけで意味があることなのです。

「生きとし生けるものは幸せであれ アビリンピックに寄せて」

2024年10月08日

アビリンピックの社会的意義はその参加者の日常の努力にあると思います。

問題文からすべて入力するのは至難の技術です。おそらくその為の入力練習はすごい努力と時間をかけたことでしょう。

結果がすべてではなく参加することの意義がそこにありますね。

それを体験できることは非常にありがたく幸せを感じます。

「命はあるだけで尊い。
命は 生まれ 生きて 老いて 死ぬ 生まれて死ぬ
生まれなければ死は無い 生きたのだから 死なねばならぬ
寿命は短い 急ぎ善を為せ 高き所にあるもの 低き所にあるもの
大きなもの 中くらいのもの小さなもの
微細なもの 今を生きるもの 生きようとするもの
生きとし生きるものは 幸せであれ
幸せとは慈しみの心を起こすべし 空 海 風 大自然に感動する心を起こせ
無量の慈しみの心を起こすべし 」

この言葉には生き物 命あるものすべてを慈しむことを伝えています。

命に優劣は存在しない。ただあるだけで尊いのです。

仏陀が80歳で死するときに この世は美しい と言いました。そこには命以外の存在 空 海 風 全ての自然も含まれています。

アビリンピックはこのことを実感させる人類の場なのです。

「愛とは」

2024年08月15日

learnとunlearnが在ります。

編まれたセーターをほどき自己の体に合ったセーターを編むことをいいます。

鶴見俊輔が18歳のころアメリカの図書館でアルバイトをしたときにヘレンケラーにあったそうです。

愛はギリシャではエロスとアガペーに分けて考えているようです。

アガペー(全き愛)にはなかなかたどり着けないですね。

仏教ではミッター慈しみとカルナー悲しみを共有する、があります。

元もとミッターがありのちの時代にカルナーが付け加わり「慈悲」になったようです。

「人間存在 急ぎ善を為せ」

2024年04月11日

「他者を助けることで自己が活き活きできる」これは人間の存在意義の一つです。

当社の仕事は仕事を求める人への技術訓練です。

しかし単なる技術訓練で終われば中身の少ない薄い人間関係に終わってしまいます。

真実の人間関係とは一人の人間が他の人との心からのコミュニケーション、人間関係を作ることで人間の存在を高めるものです。

人間とはまさしく孤立した人と他者の人との「間」の関係性が築かれることで人間の人間たる存在が誕生するものでしょう。

その関係性はで悪い関係性もあります。

できれば人にとってより良く生きていける関係性を築いていきたいものです。

2500年前の地球で人が社会を築きどう生きれば幸せになるのかを考えて倫理(人の善なる道)を追求しました。

現代でもその追求は続いています。

この大きな核心は理論ではなく、「行う」ことなのです。

口で理屈を述べる論理ではその人を幸せにはできません。

我々になじみが深い2500年前のインド北部に生まれ29歳で出家し35歳で全き悟りを得たとされるゴータマ・シッダルタ(仏陀)は人はなぜ死ぬのか、「生まれたから死ぬ」のである。

生まれなければ死は無い。

故にこの世に生まれた以上死ななければならぬ、人の寿命は短い 急ぎ善を為せ 生きとし生けるものは幸せであれ 幸せとは 慈しみの意(こころ)を起こし慈しむ行いをすることである

最古層の文献 スッタニパータより 

「いま"読み・書き・そろばん"を問う」

2023年09月07日

未だに「職業訓練は、働くのに必要な"基礎的教養"の無い人が行くところ」と認識されているところがあります。

日本の高度成長時代の中で炭鉱労働者や農民を工場労働者にするために、職業安定所を国が作り「読み・書き・そろばん」を訓練した時代を引きずっているのです。

1995年パソコンが普及し、職業訓練の主流がパソコン操作となりました。「読み・書き・そろばん」がパソコンでできる時代となったのです。

それが今、ChatGPTが生まれ、同じ現象が始まりました。

しかしながら、パソコンのみで「読み・書き・そろばん」はできるのでしょうか?

利便性が向上した時代だからこそ、人間性を生み育む為に、何が必要かをじっくり考える時代となってきたのです。

「生きる目的」

2023年04月03日

最近職業訓練でいろいろ問題がありますね。訓練生同士のいがみ合い。職業訓練校への不満や非難。当社もつらいことが多くなってきました。

人はパンだけで生きるのではない。確かこれはイエスが飢えて苦しんでいる時に悪魔がささやく誘惑に対しての言葉だったと思います。

最近の職業訓練でも、とにかくお金や待遇ばかり要求する人が増えてきています。即物的な思考が広がっています。もう少し人間の真理や理想を自己に問いかけて生きてほしいと思います。

例えば人間は生まれ、生きて、老いて死ぬ 寿命は短い 死からは逃れなれない。生きている内に急ぎ善を為せ 仏陀

これは間違っていますか?善を為すことに矛盾はありますか。この真実の実現を阻害しているのは個々人の貪欲なのです。

善とは何か?自己に良く他者に良いことです。自己の幸せと他者の幸せが達成されること。

この自己の幸せ、他者の幸せ、自己と他者にとって良いというのは自己と他者が同時に達成しなければいけないことです。

自己だけ良くてはいけない。他者だけ良くてもいけない。

日本の憲法では個人の自由、尊厳が達成された時社会の自由と尊厳が成り立つ、と明記されています。

社会の尊厳の為に個人の自由や尊厳を踏みにじってはならないのです。

当社はこの理念の実現に少しでも役立つ存在でありたい。今年10月の札幌での障害者の為のアビリンピックでパソコンの審査員を当社が務めます。

「善の考察」

2023年02月17日

訓練を受講する人にはいろいろな人がいます。

最近目立つのは過去の人生で心に負荷を与えられ人生を否定的に考える人です。

否定的な感情に対処するには講師は毅然として善の心を起こし善的行為を行えばよいでしょう。

善とは行う人と相手の人とが良くなることです。相手を否定してはいけません。

傷ついた人には思いやりを持って介護するような心でいてほしい。

  1. 善が理解できるまでに自分で自分を理解する必要があります。自分が理解できないと善も悪もわからないです。
  2. 善に出会って善が理解できるのは少ない。自己も他者も。
  3. その人が善に出会って自己を向上させるのは自己自身です。他者がその人を変えることはできない。

「命を全うする」

2023年01月10日

人は自己だけでは存在し得ない。他者の存在が自己を成立させる。

人間の幸せとは、慈しみの心を「起こす」時に生じる。

人間だけではなく他の命あるものへの慈しみの心が人の生存することの「意味」です。

2500年前にギリシャの哲学では人の命をロゴス(論理)、エトス(倫理)、の方向でしましました。

そしてその人の命を前進させるのはパトス(情熱、熱意)であると主張します。

今論理と倫理の違いも分からなく同じように考えている。熱意が倫理なく論理だけで成立するように考えている人もいる。倫理無い熱意は人間を迷わせうる。

仏陀は他の命を尊重することなしに人間が生きることはできないことに気が付いた人間です。

とくに人間社会で生きる人を覚醒させることを仏陀自身の命を燃やす道と考えて生きた人でした。

そして私は道を教える人間である。私は人を救うことはできない。人を救うのはその人自身である。

「さぁ行こう 人間の寿命は短い 生きた以上死なねばならぬ 急ぎ善を為せ」

「心の垢を取り去るには」

2021年06月30日

我々のこの仕事は「人間の救済」です。

人間はただ生きていくだけで「心に垢」 が付着します。

その垢は「自己自身の浄化」でしか取り去ることができない。

その「自己自身の浄化は」自己の心と向き合うことです。

心の垢がこびりついた人の心の垢を取り除くのはEARKSの積極的な職員からの働きかけです。その意味で職業訓練はそういうことに「適した場」なのです。

EARKSとは
    E:純粋な笑顔
    A:心からの挨拶
    R:相手を尊敬する礼儀
    K:相手を思いやる言葉遣い
    S:役に立つ資格や技術

「1人だけでも立ち向かう勇気と慈悲の心を実現する」

2021年03月23日

失業者は自己の資質だけで失業するのではなく多くは社会の貧困化、不完全性から起こるのが社会をいびつにしています。

特定の誰か個人のせいにして済ませてはいけませんね。

人々はできればすべての人が幸せになることを願っています。

しかし個人の欲望が貪欲になり他の人の不幸を考えなくなっていくのが現状です。

その中でそのことを一人だけでも気づき、立ち止まり不幸の再生産を止める勇気をもち、慈悲の心で行動することが世界を変える ことになると思います。

当社はそういう集団でありたい。

「人間とは何か?」

2021年03月22日

今日ファックスで送信した朝日新聞の記事、「支援者を支援しよう」の中に職業訓練の案内に関することが掲載されていました。

失業者は社会から「迷惑者」とした扱われている、事の不正義を支援者制度から論じたものでした。

なぜ支援者を支援しなければならないか?それは人間は1人では成り立たない存在だからです。

宇宙船でたった一人で栄養チューブの中で生まれた人間を描いた物語の中ではその人間の形態をした生き物は とうとう人間の心を持たなかった、という物語でした。

オーストラリアは太古の昔に地球のプレート移動によって 誕生した大陸です。

その先住民アボリジニはイギリスが征服するまではいわゆる文明国とは違う原初的生活を営んでいました。

残っているフィルムでは衣服はなく食糧も栽培するのはほとんどなく自然に左右されている生活です。

イギリスはその先住民を駆逐していわゆる文明を築いていきました。

幼児や子供は駆逐から免れて保護という名目の囲いに入れられました。

その中の1人のこの物覚えのよい子を「教育」したところ人間差別の激しいオーストラリアで 大学教授になった、という話があります。これは人間の持つ可能性の証明ではないでしょうか?

宇宙で一人で生き育てば人間性はほとんど発展しないが自己以外の他者がいる環境で育てばいわゆる「人間性」が育つ、ということは「人間性」は他者と自己の相関関係で成り立っていることになるのではないでしょうか?

人間とは文字通り、人と人の間そのものなのでしょう。「これ在りて それ在り それ在りてこれ在り それ無ければ これ無し これ無ければ それ無し」:仏陀

職業訓練は社会制度の不完全さを補う社会的な救済制度です。

その原因の本質は社会の不完全性にあり個人の資質に転換できるものでは無い。

しかし社会の偏見で個人の資質に転換しているのが現状です。

その支援者もそのような偏見を持っています。当社の職業訓練はその偏見を打ち破ることを社会的存在意義としています。

つまり「人は人により成り立っている」という人間存在の真理、原点に立って生きて行動していきましょう。

「ここに当社の理念有り」

2019年04月03日

池袋校は大手鉄道系カルチャーセンターの閉鎖に伴い池袋近くの雑居ビルの一室で当社のベテラン講師が勇気を振り起して継続しております。責任者の講師からの存続について、経営者 原本の答えが下記です。

状況は理解しました。単純に収益-費用=損失が出たら撤退とは池袋校に関しては考えていません。池袋校がA先生、B先生、C先生、それにD先生の“働く場=人生”を考察する場であれば、維持していきたい。 もちろん受講生がいる限りですが。

その理由は人間の真剣に生きる、交流する「場」が現代は極端に少ないからです。

高齢の方が講師を好きになり、週に1度や2週間に1度の人間的交流が有って、命の最後の灯をともすことは、聖なることと考えています。

きざですが「愛」の発生場所が無いのではないでしょうか?

当社のアイ日本の“アイ”は愛でもあります。

人生は死ぬまで愛を発信していくことが人間として生きていく責務、意味ではないでしょうか?

「当社の現在の使命」

2019年04月02日

原本は、職業訓練での中核は“日本の労働者”と“良い仕事”を結ぶことだと考えています。

現在日本の人口減少のなかで労働力が不足しています。欧米のような労働移入が遅れているのが現在の日本です。
労働移入の本質はスイスの哲学者の次の言葉です。

「労働力を期待していたが やってきたのは人間だった」

しかし労働力不足は直近の課題で水産や農業、牧畜業の現場では混乱が起こっています。すぐに日本国内の労働市場を開拓しなければならないのです。
製造業、サービス業、金融工学など、その間の労働移動も本格的にしなければこの問題を解決できない。そこで日本国内の潜在労働力の開拓です。

その潜在労働力は「女性」「中高年齢者」です。

女性で家庭にいる人を労働者にするためには職業訓練を通じて技術を身につける必要があります。これはもう10年以上前から当社で実施しています。
しかし家庭や子育て中の女性には労働時間に限界がありました。子育てを放棄するわけにはいかないのでフルタイムでの勤務は無理なのです。また家族の介護の問題が大きくなりそれを無視してフルタイム勤務は無理なのです。
10年以上女性の為の職業訓練をしてきてこれが判明しました。

中高年齢者の場合60歳定年を65歳、70歳に引き上げる法律がもうすぐできます。

しかしこれは若者の職場を奪うことにつながります。また高給の職員をそのまま雇用で来る企業は大手の利益率の高い企業に限られていています。

ヤフーニュース掲載記事で、30代から50代の引きこもり人口が60万人以上と報道されていました。この引きこもりとは自然に社会へ出るのが億劫となった人や精神的に外へ出ることが出来ない人などです。
しかし当社の職業訓練の実践でわかったことは精神的な引きこもりはいくらでも改善できるということでした。

6年前から「中高年齢者の為のパソコン基礎コース」を実践してきたのは当社だけでした。他の企業は中高年齢者のコースは就職率が低いので敬遠していましたが、当社は高い就職率を出していてハローワークでも良い評判になっています。
20-30代の引きこもり人口も合わせると100万人以上の労働力が存在しています。引きこもりの方々も働きたいのです。その方と仕事を結びつけることこそが当社の今の使命です。

関西で「中高年齢者のパソコンコース」を大きく展開しているのは当社だけです。しかも高い就職率を上げて実績を積んでおります。他者は中高年齢者の就職率が悪い、と切り捨てています。

当社の理念が、その人間不信を人間の理念を信じることでそれを防いでいます。
ここでいう当社の理念とは

「人間は労働力だけではない理想理念をもった生き物である。」

人間万歳!頑張りましょう。

「今を生きる」

2019年01月18日

人は年齢や資格でその価値を決めるのではなくその人の持つ人格、社会への貢献意識が大切ですね。仏陀の言葉ですが。

「その人がどこからの血筋であるとか、出身身分が高いとか、過去に何をしたかで観るのではなく、 今何をしているか、何をしようとしているかで観ければならない」

仏教がインドで起こり世界宗教になりえたのは人種や身分差別の無い「人間」という思考なのですね。

仏教徒になるにはある言葉を3回唱えるだけです。
「ダンマム サラナム ガッチャーミ」「ブッダム サラナム ガッチャーミ」
「ソンガム サラナム ガッチャーミ」

上記のダンマとは真理のことです。サラナム ガッチャーミとは「敬愛し信頼する」という意味です。

ブッダムは仏陀のこと、ソンガムとは出家者の集団社会のことです。
2600年前の古いインド東部のマガダ国の言語で聖なる言葉とされているパーリ語です。

ダンマ:真理とは?およそ3-4000年前のインドの言語成立の時の「dur」という語根から派生した言葉です。
意味は「保つ」という発生語根です。何を保つのか?仏陀はそれを「人間としてのあるべきもの」と考えられています。

言語の世界ではインドと欧州のラテン語は同じ系統で中央アジアのアーリア文明から発生しています。
インドのダンマという言葉はギリシャのラテン語からフランス、ドイツなどに広がりました。

ヨーロッパでの人間の最高の状態をフランスでは「ディーセント;上品な人」となっているのは パーリ語の語幹「dur」から派生した言葉です。
人の価値は金銭や身分、過去の経験など出身派閥の権威で観るのではなくその人の「今」で観ることを教えてくれています。

仏陀の言葉です 「過去は過ぎている。未来はまだ来ていない。今を生きねばならぬ」

「自分が変わる時」

2018年02月09日

自分が変わるのを実感するのは幸せです。自分が変わるのは自己を客観的に観ることができた時です。

自己を客観的に観ることが出来るのは自己の欲望、執着、偏見、誤解を離れたときです。

自己の欲望、執着、偏見、誤解を離れることが出来るのは他者の立場に立ち他者の目線で自己を観る時です。

「自己を活かす 他者を活かす」

2018年02月08日

インドヨーロッパ語は共通言語と言われています。
我々の仕事で教育は英語でエデュケーション。その言葉はインドヨーロッパ共通言語のヨーロッパ発祥のラテン語である「エデュケ」から派生しています。この意味は「引き出す」です。 当社のアイカルチャーセンターの「カルチャー」もラテン語の「カルトラ」とは「耕す」という意味から来ています。

2500年前にブッダが語った言葉スッタニパータの中に 「自己の利益で人々は交わり、自己の利益の為に他者に尽くすのは見苦しい愚かな人である。」という個所が有ります。

「利」と漢字で表現されている言葉は現代では経済的な用語のようです。しかし2500年前の仏陀の時代のマガダ語、パーリ語では「利」を「大切な」というニュアンスで使っていました。

今現代は西洋科学で教育されている我々はどうしても経済的な思考がしみ込んでいます。効率や才能で人を差別化する社会です。社会を表す言葉lokaは経済圏や行政権の無い時代には「生きている人々」の意味で使っていました。

loka ti va pajja ti va saccha
世の中は生きとし生けるものの集まりである。
という意味です。

人々にとって大切なもの、とはなにか?

仏陀の言葉では自己にとって大切なものは他者にとっても大切である、と言っています。
自己に引き当てて考えれば他者の痛みも損失も自己に引き当てれば自分が生きとし生けるものに行ってはならない行為なのです。生きとし生けるものに危害を加えてはならない、と何度も何度も言っています。

マハートマーガンジーの「アヒンサー」とは生きとし生けるものを害さない非殺生の考えです。利とは自己と他者にとって大切なもの、それは個人の命を全うする、生きていくときの輝きであると表現しています。

その人を活かすのはその人のもつ汚れや垢を落としその人間の持つ本来の輝きを引き出すことのように思います。

「命の輝き」

2018年02月06日

慈悲とは

慈:ミッター:mittaは慈しみ、安らぎ、幸福を与えること
悲:カルナー:karunaは他者の苦しい心に寄り添い、共感しその苦しみを和らげること

当社の仕事の無い人への技術の支援は形の上でそうですが、その仕事の無い状態は社会の状況やその人自身の心が 起点になり生じています。故に当社の理念ではその方の心の支援が一番重要なのです。その心の支援が上記の慈悲です。

何時も言っている言葉ですが
「命は短い 死なねばならぬのだから 急ぎ善を為せ」
上記の善とは「慈悲」のことです。

ブッダは悟りを開いてから45年間必死に活動しました。その弟子たちはアラビア海から中国まで世界各地に 出かけました。地球規模の教えがなぜ実現したのか?それほどまで命を懸けて「法」真理を広めようとしたのか? その理由が「慈悲」なのです。

ブッダは極端な苦行を戒めました。歓楽的な心も戒めました。愛を禁じた、と表現されます。しかしその愛とは享楽的な「渇愛」であり人間の持つ「快」の追求で身を滅ぼすほどのものを戒めたのです。 それは人間を高貴に保つアルタ(サンスクリット)に反するからです。ヨーロッパに伝えられて「ディーセント」という表現になりました。

幸せとは生きとし生けるものの喜びとは命が輝くことなのです。その純粋な命の輝きは「全き愛」なのです。 貪欲、怒り、迷い、偏見、誤解等の心の曇り、心の汚れの無い純粋な命の輝きを実現することが人間の幸せにつながるのです。 実はその純粋な命の輝き「全き愛」は生きている人間は誰でも自分自身の中に持っているのです。 人間は生後およそ半年の間その命は他者にゆだねられて生存を得ています。その生存は「全き愛」にゆだねられています。

全き愛から始まった愛が時間と共に世俗にまみれ快、不快の学習により心に汚れ、垢が生じていくと人間は不幸になっていくのです。 慈悲を自己の心に得るためには「縁起(空)」「因果」の法則を心に納得させることが重要なのです。

縁起(空)因果とは何か?

人間とは生育環境が大きくその人間を形作るのはもちろんですがその中心は人間関係です。いわば人間とは関係性で出来上がっているのです。その出来上がってる人間は別の側面から見ると 人間関係という「現象」からできている。現象とは一過性のもので空を飛ぶ鳥の軌跡のように実態を持たない。いわば空なのです。 また人間社会の生み出す事柄は原因が有りその結果が有ります。

エネルギーはいきなりは存在しません。エネルギーは流れます。その時に生じるのが生命です。現代の科学の熱力学第2法則:エントロピーの法則ではエネルギーは 高きより低きに流れる、とあります。生物の命、エネルギーはいきなりは生じないし死によって消滅もしない。 その命の流れを輝かせるのが「幸せ」です。その実現のために:縁起(空)と因果:の心からの理解、納得が必要であり、 それが心に定着すると悟りという状態が実現します。

貪欲、怒り、迷妄、偏見、誤解の無く「観る」ことが出来るでしょうか?

「無財の七施」

2018年01月11日

貧しさ、貪欲に打ち勝つには分かち与えることで、悪に打ち勝つには善を行う。2500年前に生まれたゴータマ・シッダルタ:ブッダの言葉です。今年は当社の事業で次のことを実践したいです。

施し。

無財施・・・・2500年前にやはり貧富の差が人々を苦しめていました。法律や社会秩序も整備されていない社会でした。 食べるものさえない時代に貧しさに打ち勝つ方法を仏陀は見つめました。それは貧しき中でも、施しをすることでした。 その中から埋めれた理念の中で無財施というのが有ります。これは財産が無くてもできる人々の生きる輝きを引き出す 美しい人間の生き方を教えてくれています。

①眼施

人と接するときに一番大きな「無償の愛」は目で相手をいたわり、優しさを与えることです。出会う人々に眼施を施してください。

②和顔悦色施

出会う人に最初に顔を笑いで施しをするのです。できたら人との交流では自分の顔に喜び(悦色)を出して相手を喜ばせてください。

③言辞施

ブッダは、人間は口の中に斧をもって生まれる。と教えています。言葉によって人は傷つけられます。 言葉によって人は優しさに包まれます。これを愛語と言います。出会う人々に愛語を施してください。

④身施

人と接するときに自己の体を使って相手に安心を与えることです。握手もその1つです。手振り身振りで相手に礼儀正しく自分から相手への好意を伝えるのです。

⑤心施

相手への心づかい、思いやりを持って接するのです。何も考えずに相手に接するのではいけないのです。

⑥床座施

2500年前は家屋が粗末でした。インドは時に雨が何カ月も続く土地なのです。雨や蛇、虫などから身を守るためには身体を保護すべく家屋が必要なのでした。時に真理を求める修行者や貧しい人々に雨宿りや休息の場所、床座を与えることが 非常にありがたがられたのです。これを現代に直せば、相手の居場所を施すことも大切です。社会的な意味合いでも、相手を追い込まずに相手を尊重して居場所を施してください。

⑦房舎施

現代での意味では、相手を身分や地位などで選ばす相手の価値観で差別せず相手を尊重するということ、これは自己の心の内に 迎け入れることです。これが出来る人は聖者なのです。

※以上の7つの覚え方、目、口、顔、体、心と場所、心の解放、です。

「・・・励み人・・・・励む人」

2017年09月22日

仏陀の言葉ですが人間的な生き方とは物理的生誕ではなく幼児から子供になり少年少女になっていく過程で社会から学ぶ時、つまりは一切の社会現象が個人の人間性の始まりとしています。

これを「縁」と言います。

この縁は社会現象を受けて個人の価値観、その価値観の取捨選択、重要度の利害による選択等含めて個人の性格が形成されていく時個人の人間性が形成されていくと仏陀は教えています。

この社会「現象」は実に個人を形成するものです。

減少である以上その現象が過ぎ去った時には何も残りません。

これを「空」と認識しています。

一切が空、しかしその空=現象により人間が出来上がっているのです。

より良く活き活きと生きるためにはどうしたらよいか?

仏陀は生命現象は何時か終わる、ことでそこに永遠の生命を見出しています。

「寿命は短い いつか死なねばならぬ よって 急ぎ善を為せ」
「励まない人は死人である 励み人は永遠である」

お互い生きている間は励んでいきましょう。

「社会的弱者と当社の存在意義」

2017年03月23日

身障者への講座は損得抜きでどんどんやりましょう。
当社の存在、当社の理想、理念の実現の問題だからです。

君の下記の報告を読んで思ったのはこの講座を実行することで社会的弱者はもちろん、その人たちと交流している人間、講師、職員が強くなり、向上して行くのが良くわかりました。

原本は常々思っていることが有ります。
それは弱者の存在意義です。

社会的弱者は大きな問題を提起してくれます。
情報弱者、就職弱者、等々いろいろな社会的経済的環境が弱者環境を生み出しています。
身体的弱者も障害以外に精神、健康等色々なハンデを持つ人がいます。
その全体を社会的弱者と考えています。

その社会的弱者の存在意義は社会的健常者や社会的強者の存在と合わせて人間社会を構成しています。
強者や健常者だけでは社会は成り立たない。
それはナチスの虐殺、戦争での人間性の崩壊、身体的、精神的身障者、弱者の虐殺が起こったことで人間の尊厳が浮かび上がったことが近年の歴史です。

社会的弱者の存在の本質は人間全体の問題です。
弱者を援助することは援助する側の人間性を豊かにするものなのです。

仏陀の教えの中で
「貧しさを克服したいなら与えることである。与えることは奪われることではない。分かち与えるのは豊かになることである。」
これは物だけの問題ではなく、心の問題でもあるのです。

心を与えても心は貧しくならない。逆に心は豊かになるのです。

社会的強者、健常者は自ら進んでこれを行うことで真に豊かになれるのです。

これは人間存在の本質的意義である「愛」の増産、愛の建設、人間の尊厳問題なのです。

「企業が継続するということの意義」

2017年01月31日

阪神大震災の最大の被害は地域のコミュニケーションの崩壊でした。
住宅もバラバラで地域の人々の心がつながらず崩壊していったことでした。
それは東北大震災でも同じことが起こりました。

慣れ親しんだ地域の人たちとのコミュニケーションを失うことは自己の存在すべてを失うことでした。
他者に対して働きかける表現手段を失えば自然に自己の存在が希薄化するのです。

それは仕事を失うことも同じです。

自分の慣れ親しんだ仕事は自己の人間性の発言であり自己の存在の実存を確認することなのです。

それを失うと自己存在そのものが失われていきます。

当社が倒産すれば新聞やチラシ、ハロワでの職探しが始まります。

今までの仕事で自分の人間性を表現してきたこと、すべてが失われ、新たな職種、仕事で1から作りなおさなければ自己実現を具体的に感じられないのです。

それはそう簡単ではありません。子ども、赤ちゃんを抱いて職探しをしなければなりません。
一般の人に比べて何倍ものハンデを背負っての戦いになるでしょう。

それは、今我々が職業訓練をしていてその現実を目の当たりにしているので明らかです。

人々が社会に貢献できていたことがその企業の倒産によって一瞬で失われ、今度はその企業の従事者が被害者になり、あがき続け、現実に妥協を強いられ孤軍奮闘する現実になるのです。

社会の必要とされる企業で働ければ今ある現実からステップアップでき、何倍もの生きがいや充実を感得できるのです。

「当社設立の意義」

2016年09月09日

原本が28年前に当社を設立したパンフレットに

「あなたの可能性は無限!でも何もしなければ・・・」

これは人として個人の尊厳は人間として唯一絶対に揺るがないものなのですが、社会に出て報酬を得るためには社会に役立つことが必要なのです。

その社会に役立つためにはなにがしかのスキルが必要なのです。当社の設立の意味はその為に有るのです。

「人生に向き合う」

2016年06月30日

お疲れ様です。
下記の件、改めてご指摘を頂き、ありがとうございます。
EARKSについては必ず訓練開始時に説明いたしますが、訓練生にもよりますが、最初は「なぜ必要なのか」を理解できていないかな?という人もおります。

ですが、訓練生に対して「貴方が一緒に働いてみたいと思う人は、どういう人ですか?」等と聞いてみると、 ほとんどの人は「思いやりがある人」「気遣いが出来る人」等を真っ先に挙げてきます。
「技術(スキル)がある人」という意見も出てきますが、1番目に出る事は少ないと感じています。

こういう回答を聞いていると、「人間力」といった事の大切さを、訓練生は心のどこかで理解していると思うのですが、身に付ける手段や機会を見失っているのだろうと思っております。

それが毎日の挨拶練習を続ける事や、隣の訓練生との会話による刺激、グループワークでの意見交換、就職支援でも説明するヒューマンスキルの大切さを理解してもらう事で、少しずつですが確実に変わっていると感じています。

こうした変化をする手助けが出来るように、それによって新しい人生の出発が出来るように、今後も懸命に努めたいと思います。

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最近職業訓練のメイン講師を担当している当社の社員でもテクニカルスキルの習得にかまけて肝心なことをおろそかにしている、または肝心なことをあやふやにして授業に逃げている人がいます。

その肝心な事とは何か?当社の理念・理想の実現です。テクニカルスキルの習得だけなら単なる反復練習でいけるでしょう。

当社の理念はそんな軽薄な目標ではない。

当社の就職率の良さもテクニカルスキルの習得で達成しているのではない。

当社の理念はヒューマンスキル、EARKSに代表される人間性の向上、人柄、をトータルしてサポートする中で訓練生が自己の人生と向き合いなにがしかの気づきを得て新しい人生にチャレンンジすることを理想としています。

そうです。今の社会風潮はお金儲けするものが一番偉い、という愚かな価値基準が世の中に蔓延しています。

我々だけでも人間の人生にまともに向き合い一番大事な「愛」を基準に生きることを主張していきましょう。

当社理念:EARKS

2016年06月08日

人の価値観はそれぞれですね。

自己の価値観にとらわれるのは自己の為にならないことが分かったのですが、 現代でも狭い価値観にしがみついている人が多いです。

EARKSは
キリストの言う愛、講師の言う礼儀、プラトン、アリストテレスから始まる ギリシャ哲学のアガペー、ディーセント、仏陀の執着を捨てる生き方、マザーテレサの言う笑顔の提供、 それらを実践するものとしての当社の理念です。

EARKS

2015年11月14日

当社の事業は人間性の向上を目的とした人間交流です。

特にEARKSはその理念を達成する理想を表しています。

E:笑顔
A:挨拶
R:礼儀
K:言葉づかい
S:資格に代表される人間生活に役立つ技術の習得。

これは我々が考える「共育」の入口であるとともに人間性の極致である最終目標でもあります。

ヨーロッパ文明が到達した人間性の極致は「ディーセント」と言われています。
それは人間の到達するもっとも尊いものは「上品」であると考えているのです。

孔子の目指した最高の徳目は「礼」を核としていることを認知している人は少ない。
仏陀は30歳代で悟りを開きました。人間の苦悩と向き合い、これを克服した人でありました。
その最後の80歳で身罷る時に言った言葉は「この世は美しい」というものです。

この世は苦悩に満ち溢れている。
生病老死。そこから逃れることは誰にもできない。
この世はその様は苦悩の連続である。

しかし最後になぜこの世は美しい、といったのか?

EARKSの意味をもう一度、我々はしっかり心の深くで受け止めること出来るようにが努力して生きましょう。

向上する自己を嫌いな人はいない。

2015年10月31日

向上する自己を嫌いな人はいない。教育とはいかに向上する自己を認識させるかです。

高齢化社会での当社の存在意義

2015年7月3日

君の文書を見て思ったのは、パソコンの学習、カルチャーセンターの習い事など個人生活の中で息抜出来る場所と時間が必要なのだということです。
高齢化に伴いますます認知症などの問題が生じます。道新では80歳前後で10数年通ってこられた人が高齢の為に来られなくなることが出てきています。
しかしそれは人間の宿命で遅かれ早かれ仕方ないことです。それまで精一杯生き抜くのが人生なのでしょう。
家族の介護などもそうです。

下記の文書の中で

「いや~先生助かるわ~早めに準備しないとアッという間に年末だもの。今年の作ったのをプレゼントしたら喜んでもらえて良かったから~ 来年のも頑張るわ~♪」と嬉しそうな表情でしたので何よりでした。
またご病気のご主人がおられるので「ここに来ると集中できるし、気楽なのよ、だからここにくると違うのよね~」

の意味は深い。
当社のパソコン教室やアイカルチャーセンターは上記のような「場」を作り提供することで生活に支障を感じている人の息抜き、生活に潤いのない人の潤沢な楽しみを提供すること、そのことを支える人、支えられる人の交流それが当社の理念、存在意義です。
色々なことがありますがこのことの真実は変わらないでしょう。

また経営者は勤務した1人ずつへ内容の妥当性や良い点、悪い点、今後の進むべき方向など、アイ日本総合ビジネス学院の理念理想の観点から内容を考えて返信している。

あなたは何者か?

2015年2月27日

今の資本主義経済の中での人の働き方は様々です。
しかしこれだけは言えるが、組織上の上位者から業務指示を受け、意味が十分理解できないまま仕事に入ったと して良い結果が出るとは思えない。

そこで良い仕事の一例をお伝えする。

当社の九州宮崎県
 ①勤務したら、その人は必ず自己の
   a:勤務内容
   b:勤務で感じたいろいろなこと
   c:それが自己に与えた影響
   d:それらを活かして今後こうしたい
という希望の内容が入った(毎回全部入っているわけではないが)業務日報を地域責任者と経営者に送付している。

地域責任者はその勤務者の業務日報と自己の管理している4拠点の収益管理の業務日報を経営者に報告している。

また経営者は勤務した1人ずつへ内容の妥当性や良い点、悪い点、今後の進むべき方向など、アイ日本総合ビジネス学院の理念理想の観点から内容を考えて返信している。

これはもう4~5年行っている。その期間で勤務者の考え、行動が当社理念理想に沿うようになってきている。

原本の仕事は上位者から指示を受けたものではない。
関西の訓練コースは多いときで2ケタが同時に走っています。
そのすべてのキャリア講話を原本は受け持っています。
簿記関連のコースもほぼすべて受け持っています。
業務日報は全国の職員から送信されたものに全て返信しています。

これは何の為?経営者だからお金の為?権力維持の為?

仏陀のことば
「あなたは何者であるか?人は世の肩書や持つもので決まるのではない。
それらはいずれ無くなり残らない。
あなたは今まで何をなしてきたのか、今から何をなそうとしているか
これからなにをなそうとしているか それがあなたの中身です」

  「あなたの最良・最善のものを与え続けなさい」

職業訓練で必ず伝えてほしいこと。

2015年1月5日

職員各位

アイ日本総合ビジネス学院
学院長 原本 実

職業訓練で必ず伝えてほしいこと。

1.技術より人

いくら高度な技術を持っている人でも解雇される人はいます。
パソコンでいえばSEやプログラマーなど。簿記でいえば日商一級など。
しかしその資格があればどんな企業も採用して安楽な生活を保障してくれるでしょうか?

当社の職業訓練での育成人財は

「E・ARKS:アークス」を持つ人財育成です。これは優先順位もこの並びです。

A:挨拶  R:礼儀  K:言葉づかい  S:資格技術」

A:挨拶
  その人の良い挨拶は職場を活性化し、職場の華になります。

R:礼儀
  きちっとした礼儀は相手をも綺麗にします。
  それは相手に尊敬の気持ちが伝わり相手もこちらに対して尊敬の気持ちが湧くのを
  導きます。

K:言葉づかい
  『丁寧な言葉、尊攘の言葉を聞けば自分がいかに大切にされているか』が心に入って
  きます。
  そのような言葉づかいをされると自然と相手を大切にしたくなります。

S:資格技術
   これは上記のARKの後にくるものです。しかしこの資格証明がないと面接に
   たどり着くのは難しい。しかしこの資格証明はその人物の労働生産性が高いことを
   保障しない。性格のねじ曲がった人はいくら高度な資格証明があっても
   企業は採用を控えるでしょう。

E:最高の笑顔
  最後にこれらARKSを超えて「最高の笑顔」があります。

当社の25年間の職業訓練を通じて得た教訓です。

「笑顔の素敵な人は就職が早い!」
マザーテレサは修道女に何回も何回も繰り返し語ったのは
「いま死にゆく人に一番何が必要か?それはあなたの笑顔です」

こうも言っています。
たとえ作り笑顔でも無いよりはずっと良い!

※上記は当社の職業訓練では必ず訓練生に伝えてください。職業訓練の核心です。

2.職業訓練の財源はどこからくるのか?

それは労働者の納付する雇用保険を主な財源にしている。
たとえば20歳から働き始め65歳で無事定年を迎えた人はその45年間の払い続けた雇用保険はその人には戻ってこない。
最後の失業時に若干戻るだけです。そのお金でこの職業訓練が成り立っています。

納めた人が受け取るのではなくその世代を超えた後輩たちのために積み上げられたお金で失業者が訓練を受けているのです。
だから訓練生は今度自分が働いて雇用保険を納め後輩を援助していく義務があります。

今の世の中は技術革新が急激です。
個人の持つスキルは数年で古くなり技術革新に合ったスキルアップは数年で必要となります。
そのためにも自己または後輩のために雇用保険を納めていく必要があるのです。
世代を超えた相合扶助がここにあるのです

3.職業訓練は単なる学校ではない。

職業訓練は個人のスキルアップを図り時代に合った世の中に役立つ人材を育成するためのものです。

日本では第一次高度成長期に石炭産業から工業生産産業への労働移動を手助けした職業安定所がそのスタートです。
今は読み書きそろばんのできる人材からパソコン操作など一定技術を持った人材育成になっています。
訓練期間には給料にあたる訓練での一定技術習得のため、生活費の一部を助成する給料が支給されることが多い。

これは訓練期間は「勤務」という状態。
ある業種から別の業種へ労働移動するための技術を取得するための勤務の位置づけです。

現在その職業訓練期間の出勤の2割以上の欠勤があれば退所させられます。
この事実が職業訓練を勤務としていることを証明しています。

4.職業訓練生の義務

職業訓練は次の仕事に就くための勤務で給料が出る。
職業訓練修了から3か月の猶予が与えられているがその間に「次の仕事に就く義務」がその財源を受ける訓練生にあるのです。
働く意思のない人は初めから職業訓練を受ける資格が無いといえます。働く意思のない人は本質的に社会を構成する労働者でないことになります。

5.職業訓練の修了証は何の役に立つのか?

学業が立派でもそれは労働生産性が高いとは断言できない。
あくまで学業は学業で履歴書には学業証明として記載される。が職業訓練は数か月から数年のものがあります。

面接時にその企業の面接の担当から経験者が欲しい、と言われることが多い。暗に未経験者の採用は難しい、と断られるケースがあります。
職業訓練は次の仕事に就くための「勤務」です。

当社ではパソコン以外に会計、簿記、給料計算と事務関係で多彩なコースが実施されています。
そのコースの修了証は職務経歴書に記載できます。
つまり簿記訓練を終えれば全くの未経験ではなく一定の簿記実務の経験があることを証明できるのです。
2割以上の休みが取れるのではなく、職業訓練の全日程を積極的に参加して技術を習得し、修了証を獲得すれば「若干の経験者」であることが証明できるのです。

※上記の5つは当社の職業訓練では必ず訓練生に伝えることです。

企業活動の利益とは

  

2014/12/04

原本の考えでは、企業活動の利益とは社会資本を使い社会資本を増やすことです。

たとえば100という社会資本を使い101、102とすることです。
社会資本100が結果的に90になればそれは企業社会からの撤退勧告と思っています。

企業の従業者の給料もその中の社会資本コストです。
日本の現実の社会で生きている人でこれを免れる人はいないのです。

日本の報道の中でそのことをわかって努力している人、
尊敬する人はたくさん、たくさんい存在します。

社会資本を増やす方向の中心はその企業が社会から高い評価を得ることです。

個人が評価されるごとく、企業活動も評価されます。
それが収益を生みだす元になるのです。
評価を得ることは、単に対象者、ステークホルダーの機嫌を取ることとは違います。

人を活かすのはその人の持つ限界を
その人自身が突き破ることをサポートすることです。
当社は少なくともそのことを理解し、実践し、人間愛を建設することを
目的とした企業です。

一緒に頑張ってください。

定 年  「何を」達成するために生きてきたのか?

 

2014/05/12

今日の新聞で定年のことが掲載されていた。
60歳で定年、5年間は嘱託やアルバイト、短期雇用でつなぐ人が多い。
60歳で定年の時、勤め上げた実感がわくだろうか?という内容です。

「何を」勤め上げたのか?
それをアイ日本総合ビジネス学院として自らに問いなおしてほしい。

「何を?」勤め上げたのか?
単に生活費を稼ぐためで、は大事なのはわかる。が勤め上げたことに誇りと自尊心を持てる内容だったのか?

人生の大半を「何に?」ささげたのか?
家族の為?親の為?自分の為?
だいたい朝8時ぐらいから夜の8時ぐらいまで起きている時間の大半は企業活動にかかわって生きているのが現実です。

その企業活動は何を達成するのが目的なのか?

あなたはその「何を」達成するために生きてきたのか?
自分に問いなおしてほしい。

当社らしいつながり 

                               

2013/09/23

宮崎は給料や時給が全国最低に近い、就職市場も良くないのになぜ、当社だけ就職率が90%以上なのか?
下記の報告は宮崎県責任者からの報告です。

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 都城ケーブルテレビに就職した修了生より求人のご連絡を頂きました。
 上司の方に許可を取って頂き、当社への直接の2名の求人です。
 以前も1名紹介させて頂き、採用となっております。
 現在就職活動中の修了生にお勧めしております。
 訓練が修了してもこのような連絡をいただけるのは大変ありがたいです。
 これからも訓練修了生を通しての地元業者とのお付き合いは大切にして
 いきたいと思います。
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宮崎県では上記以外に医療機関・特に病院の職員に当社訓練生が多く就職しています。
それもほとんど訓練生つながりの就職です。
ありがたいことですがいつも考えていました。
今回の報告でそのことの流れを作る重要な要素があることがはっきりしました。

それは当社の職員・訓練から訓練生に対し、就職することは訓練生自身のためでもあるが、 その就職が訓練生自身だけでは無く、訓練校にとっても良い評価になり職業訓練を当社が受託でき、 我々が職業訓練を続けていけるのにつながります。
訓練生の就職は我々講師が生活できることにつながる、 それを正直に伝えているからでしょう。我々訓練校は決して上から目線で訓練生に就職をすることを指導してはいけないことに気づかされます。
当社の収益さらにその職業訓練の受託は訓練生の就職率により評価されます。
訓練生が就職するのは我々講師の生活源泉なのです。
それを講師として変なプライドなどでごまかしてはいけないのです。
訓練生が就職する。
我々が仕事を続けられる、その関係では一心同体なのです。
上でもなく下でもない関係です。 構図から我々の生活の元である収益の半分は職業訓練から来ています。

当社の理想・理念で「人間的交流を創り上げる」というのがあります。
上記のことこそ我々の目指すべき道筋を示しています。
このことを深く心に刻みこんで今後の職業訓練をおこないましょう。

当社の i の意味

 i as in…   アイの意味は次の理念があります。
  mprovement(改善・進歩・上達)   nteraction(交流)  nnovation(改革)
  ndependence(独立・自主性)  deal(理想)  dentity(個性)
  ntellgence(知性)  nternational(国際的な)  magination(創造力・想像力)

 そこから「共育」という概念が導き出されました。
 英語の「エデュケーション」はラテン語のエデュコ「引きだす」から派生したといわれています。
ただ引き出すには2つ意味があり子ども世代の幼い頃は「導く」手本を示し同じ事を繰り返させる、その後長じて個性に応じて才能を引き出す、というような意味です。「教育」という日本語が最初に誕生したのは明治期に天皇を頂点とした国家を確立するため日本国民に、教育勅語を発令しました。その時に「教育」という漢字が使われたといわれています。「教」とはムチで教える、という語源が元だといわれています。 当社はこの背景から次の言葉を考えました。「共育」です。それは次の概念から来ました。

  貴方の可能性は無限です。でも何もしなければ・・・・・
 私たちは、あなたの可能性を信じます。・・・・・
 We trust your possibility

  人間の生きる目的は何なのか?
 それは「幸せになること」です。
ところが「幸せ」を「自己の満足」と置き換える人がいます。これは自己のコンプレックスの裏返しです。
コンプレックスとは保障されない欲望、欲動と訳されます。
背丈にコンプレックスがある。そのコンプレックスの解決は背が高くなることです。金銭にコンプレックスがある。そのコンプレックスの解消はお金持ちになることです。
ではそのコンプレックスが解消したとき人は幸せになるのでしょうか?
否!
それは単に背が高くなる、お金持ちになる、というだけである。元々、背が高い人、元々、お金持ちは幸せにはなれないことになる。これはおかしい。
では幸せとは何なのか?

   不条理劇というのを知っていますか? 「ゴド―を待ちながら」という演劇があります。これは現れることがないゴドーを待ち続ける物語です。
神を信じる、ことはこれに似ています。神がいるならどこに?それは自分の心の中に、です。芸術はほとんど暗示、示唆で終わる。明確な解答は解答にならないからです。
さて「幸せ」とは何?人にとっての幸せ?人間にとっての幸せ?人と人間とは違う。
人の祖先ホモサピエンスは10万年前にアフリカで生まれ、全世界に広がったことはDNA研究で明らかになった。
ところで人間としての行き方、存在が示されたのは何時か?
明確には不明だが、文化・文明の象徴である宗教が世界同時成立であることが「人間」という
概念成立に関与している。ユダヤの旧約聖書の編集はBC500、今はAC2013年、旧約聖書編集から500年後に救世主としてイエスが誕生したと信じるのがキリスト教です。今から2500年前です。
インド北部に2500年前に生まれたゴータマ・シッダルタが仏教を創設しました。中国、東アジアで価値観の源泉となった親、祖先を敬うなどの儒教は孔子が唱えました。これも2500年前。
10万年前のホモサピエンス誕生から言えば2500年は1日24時間のうちの36分前です。
「人間」という概念が生まれたのは今から36分前ということに成ります。
10万年前うまれた「人」の幸せとは動物としての満足の域にあるのでは?
しかし、「人間」にとっての幸せとは何なのか?人間という概念を持ち続け、建設し続けることではないか?
それは神を持ち続け、神の概念を建設し続けることに似ています。
その概念の象徴的なものは「アイ」です。愛です。
貴方はたくさんのお金や財宝に囲まれることと愛を得ることと、どちらを選びますか?
愛は育て、世話をしなければ成長しません。
アイ日本総合ビジネス学院はそこから生まれました。
職員の皆さん、誇りを持ってこの理想を追いかけましょう。
決して終わることのない理想建設ですが・・・・・・・・。

アイカルチャー講座の基本理念と理想

アイカルチャーは独自の理念と理想をかかげて講座を開発・維持・発展させます。

講師は○○流からスタートしてもアイカルチャーで講座を行うときにはアイカルチャーの理念・理想を大事にしてもらいたい。
たとえばアイカルチャーでは武道を学ぶのは「礼」を学ぶのを基本理念・理想とします。
以下にその理由を記します。

文化・文明という場合文明は生活するうえでの利便、ハードの発達をさす場合が多い。
カルチャーは日本語で文化といわれる。文化は継承されるが、時代にそくして変化・変容していきます。
文化の核心は人間生活の中の核である「愛」にあります。

アイカルチャーの目指すのはこの「愛」に基づく文化創造・継承です。

儒教では最高の徳目を「仁愛」と「礼」です。
「礼」は日本では礼儀の礼と考えられていますが本来の意味は人間としてどう生きるのが良いか、の1つの理想を「礼」としています。
ヨーロッパでも至高の人間の状態を「ディーセント」と考えています。
「礼」「ディーセント」これらを日本語で本質に近い解釈で言えば「上品な」ということでしょうか。

サルから人へ、人から人間へ変化・変容してきました。
生きていくための奪い合い、殺し合いといった動物の低次元の本能から人間社会を作るうえで発達してきたのは 弱者排除から弱者共存さらに弱者を社会の基本とする社会でした。人間は牙も無く強力は筋肉も発達しませんでした。
動物界では弱い存在です。

人間社会は地縁血縁社会・ゲマインシャフトから社会的利益共同社会・ゲゼルシャフトと発達してきた歴史があります。
これは生活・生産資材の供給と配分の経済学からも証明できます。

採取・狩猟社会から貯蓄社会へ、血縁の小さな集団から村社会へ、村社会から都市社会、国家へ。
貯蓄による富の誕生が生み出した階級社会が現在も続いています。

社会はいったん成立した社会状況を維持することを第一義とする安定・安心原則が働きます。
封建社会が生み出した玄妙な階級社会維持の社会風習・装置が多くあります。

カルチャーはそれとのかかわりが深い。カルチャーセンターの講座は文化の伝承の側面があります。
日本のお花の家元の格式は源流をたどると封建時代の頂点とのつながりが多い。昇段試験や昇段費用は江戸期に発達した文化でした。
アイカルチャーはそれらの文化伝承だけに終わることのない文化創造を目指したい。できることなら人間として最高の生き方を追求したい。
人間が思想として革命的なものを2500年前に生み出しました。
今は2013年、イスラエルにイエスという人間が誕生しました。
それを救世主キリストと考えるのがキリスト教です。
その行動は新約聖書に記されています。
その源流である旧約聖書はイエス誕生の500年前から編纂されたと考えられています。
現在から2500年前です。
同じく2500年前にインド北部の釈迦族の王族の1人に生まれたのがゴータマ・シッダルタです。
全き悟りを得たものブッダともいわれます。その仏教の核心は「律」です。
後世、律から戒となり「戒律」と変化を遂げました。
「律」とは動物の本能のままに行動すると人間社会で不幸を招くことになるから、 人間は自らの行動を律していくことで動物界から人間界に入れると説いています。
中国では2500年前に孔子が生まれ、儒教を創始しました。

さてこのような思想は何のために生まれたか。より良い人間社会を作り人間がより良く生きていくためではないでしょうか。

それらの核が「愛」です。

人間愛の確実な1つの状況が「上品な」ということです。「礼」「ディーセント」です。
さてアイカルチャーは封建時代の伝統や階級社会の維持装置である伝統に束縛されるだけの講座は理想としません。
伝統的な文化も大切です。それは文化の発達過程を学び、より良い人間社会を創造するために必要だからです。
文化の伝統学習で終わるのでは意味はありません。その学習を通じて至高の「愛」を建設するためにです。

目の前の人を活かす

昨年は日本のカルチャー業界のなかでは「珍しい」出店を3箇所実現することができました。

なにが「珍しい」のか?
今までのショッピングセンターでのカルチャーセンター立地は裏側での立地でした。
日本の民間では最大数の出店をしている大手、㈱カルチャー、十字屋などの出店もメイン通路から外れた裏側での立地でした。

当社の宮崎センター、水戸内原センターもそうです。 しかし昨年秋のつくばセンター、大津一里山センター、菖蒲センターは全部メイン通路に面しての立地なのです(おかげで年末、年始の休みは無かった!)。
今後、当社のこの出店形式が日本のショッピングセンターでのカルチャーセンターの基準となるように頑張っていきたい。
昨年中に数多くの出店要請があり(14件)今年、全部は無理ですが何箇所かはオープンしていきます。

私は1月1日恒例の高野山参りをしてきました。高野山は大雪でした。
その1月1日の夜明け1月2日の朝、にひとつのイメージが沸き起こりました。

それは「目の前の人を活かす」というものです。

抽象的な理想を大言壮語するのは簡単です。しかしそれは実現からはほど遠い絵空事です。
理想、理念を実現するのはまず目の前のことを1つずつ、丁寧に丹念に実行していくことから始まるのではないでしょうか。

当社はカルチャーセンターという業態へ進んでいます。 カルチャーセンターが本物になるには講師の方が生き生きと講座を行い、受講生がその本物の「交流」が在る「場」で自分の喜びを発見し、個性が輝く。
講師と受講生が共に、自分の中にある良い人間性を具現化、実現化していく、そういったカルチャーセンターを作ることにスタッフが努力することでスタッフ自身の人間性もより良く高められていく、講師、受講生、スタッフのそういう有機的な連鎖が起こるのが本当のカルチャーセンターである、と考えています。
またパソコン教室部門職員はパソコンの持つ可能性を具体的に受講生に伝える、そのためにパソコンの持つ可能性は自分の勉強、研究をする必要があります。
またパソコン講師と受講生の関係は人対人の人間交流を行い、受講生のためになることで自己が活き活きと生きていける、そういったことを自覚してほしい。

そういう理想、理念を実現するための第一歩は「目の前の人を活かす!」ことです。

これを今年の実現努力目標としましょう。
パソコン教室部門職員としては目の前の受講生、職員仲間を活かすためにどうしたらよいかを考えること。
カルチャー部門職員は、講師の個展、展覧会、体験会の実行により、講師の方を輝かせるために何をしたら良いかを考えること。

カルチャー職員は受講生にカルチャーセンターへ来るだけで満足するような「場作り」をするには何をしたら良いか、を考えること。 カルチャースタッフはある意味では裏方ですが、カルチャーセンターが良い、というのは講座の講師が良いこと、と同じ質量、同じ次元でのカルチャーセンタースタッフの気遣い、心配り、の交流が良い、ということでもあります。 そういた良いカルチャーセンターを生み出す、意味ではカルチャーセンターのスタッフも立派な主人公なのです。
目の前の人、とは職員仲間、家族、知人も含めてください。
目の前の人を活かす!ことで自分自身が活かされていく、そういう連鎖をしていくいために何を具体的にしたら良いか。をまず新年が明けた今から「考えて」いきましょう。

収益の目標:現金損益分岐収益:正常損益分岐収益

仕事は生きて行く上で必要です。
生きていくには物質的に食料、住居、衣服、などが必要です。これは何もしなくては獲得できない。

働いてお金を得る必要がある。また人間の心の充実のためには生き甲斐が必要です。
心の健康には生きるのが面白く、楽しく、充実している必要があります。
人間が生きるのに必要な物質的なものの獲得と精神的な健康の両方を満たす上で必要です。

その手段が「働く」という状態です。
何百億、何千億円あったとしても一生涯1つの部屋で閉じこもって暮らすことは出来ません。

宇宙の中にある星の1つに1人きりで暮らすことが人間でしょうか?

活き活きと生きる、は英語でレスポンスビリティー。
これはラテン語のレスポンデレから来ています。
レスポンデレとは「反応」という意味です。

十代の青春では何をしても楽しく面白い時代があります。
箸を落としても笑える日々があります。
体や精神の反応が俊敏でした。
年をとると体や精神の反応が鈍くなり、動きが鈍くなり、やがて動かなくなる。
「死」です。
体の衰えは年齢と共に防ぐことは出来ません、しかし、精神の衰えは死を迎えるまでみずみずしく保つことが出来ます。
「若さは美しい。老いたるは麗しい」と成り得ます。

さて日々活き活きと生活するためには物質的なものの獲得と精神の健康、精神の充実が必要です。
それは「働く」=人偏に動く=を通じて得るものです。

当社の理念の1つである利益の獲得と個々人の働き甲斐の2つの確立が必要です。
働き甲斐の意味は今少しおいておきます。物質的充足のための利益は企業ではどういう形で得ることが出来るかを説明しておきます。

利益の確保は収益と総減価コストの差です。

収益が伸びれば原価コストも上げる。
特に原価コストの中心である人件費は収益に比例して上がる。
この総原価コストの伸びを収益の伸びより低く抑えて出てくるのが利益です。

現金損益は家庭で言えばエンゲル係数的なもので生きて行く最低限の食費、消耗品購入費などの現金収支です。しかし子どもが大きくなると 高校・大学の教育費が多大にかかる。
そのため学資保険で積み立てる必要がある。入学式のランドセル・服装の購入など、育てていくのにいろいろなお金の積み立てが必要です。 たまには家族で旅行や外での食事等も積み立てがいるでしょう。
結婚してアパートからマンションへ、さらに子どもが生まれ人数が増えれば独立した部屋を与えたい、 と考えた場合は一戸建ての家などの購入の頭金の積み立て、そういうものが企業にもあります。

IPAD、ウィンドウズ8などのタッチパネル式パソコン、設備の新規購入、教室稼動が上がると敷金の調達、人件費では賞与、退職金の積み立てなどが必要です。 この率を15-20%と考えると正常損益は現金損益の120%と考えたほうが良い。

企業を前に進める両輪

企業が成立するため、前に進めるための両輪
①利益=収益(企業活動の結果)-費用(企業努力の総て)
②その企業を成立させている勤務者の働き甲斐、生き甲斐を得られること

の2つが同時に必要です。

①企業活動の結果が利益=収益-費用が出ること
費用とは企業の努力=人件費を含めたコストの総額です。 収益総額が費用総額を超えれば利益が出て社会資本を利用して付加価値生産していることにあり、 企業存在が肯定され、勤務者の給料が正常に払われ、勤務者は生活財を手に入れることができる。

②仕事のやりがい、生き甲斐を感じることが出来ること。
仕事のやりがいは一概には言えないが、その企業が上げる理念が正しく、真実であり、それに賛同し、 その実践を通じて顧客に役立っていると感じられ、さらに世の中の人々に役立っている、貢献していると感じ自己の存在感を充実できること。

さてある意見が寄せられた。
これは最近のことですが、求職者支援訓練の申請書類を作成するのに7.8人が自発的に夜中までかかって仕上げ、申請しました。 (もちろんその勤務に給料は支払われています) 結果として申請コースは認定されたが、定員充足が出来ずに開講できなかった。
そのことを経営者が指摘したとき、その地域の責任者から『教室稼働率が悪い=無駄がある』との言葉に対して、 ――私だけではなく、他の人たちの努力もまったく無駄である、と責められたように感じてしまいました。――

それに対する経営の観点からの回答が下記のものです。
社員評価で君たちの努力は認める。
しかし経営的に考えれば上記の「・・・・無駄だった」の指摘は正しい。
努力をしても収益をあがらなければ意味は無い。
企業の従業員への業務上の指示は、こどものしつけと違う。努力すれば良いのではない。 企業努力=コストです。収益はそのコスト以上でないといけません。
10月の申請のとき多くの人が自発的に申請業務を夜遅くまでしました。
それはコストから言うと人件費をかけて申請書類を作った企業努力です。
そして認定された。   が定員充足が出来なかった。
つまり全員の努力=コストが無駄に なったのです。これは事実です。

意地悪で言っているのではない。 営業マンが足を棒にしてお客さんを探しても、購入してくれる顧客を獲得できなければ 報酬がもらえない。
努力したから認めてくれ、はコストをかけたから認めてくれ、というのと同じです。
結果として収益がコストを上回らなければ企業の存続は出来ない。現実を冷静に見て理解してください。
企業が成立する両輪、働き甲斐、生き甲斐と利益=収益(企業活動の結果)-費用(企業努力の総て)は次の言葉が簡単に説明します。
赤ちゃんを育てるのに愛情だけではダメです。(理念だけではダメです)
具体的な努力:オムツを換えてミルクを与え衣服を洗濯し清潔にして病気や怪我をさせない。
精神上も不健康なコンプレックスを避けさせ、精神衛生に悪いストレスを避けさせ、健康なからだと健康な精神を得られるように過ごさせることも大切です。
その過程を経て子供が「良い成長」をするという成果をもたらすのです。

アイ日本総合ビジネス学院とは何であるか?

企業は社会の変化に対応して揺れ動くものです。
日本では政権交代が激しく、交代するたびに進む方向、社会を良くしようとする施策、法律もめまぐるしくかわっています。

当社にとって労働政策が一貫せず、職業訓練の措置も変わり大変な状況です。
しかし川の流れに浮かぶ水鳥は同じ位置にとどまるにも前に進むにも足を掻き続ける必要があります。
われわれ、企業もそうです。世の中の付加価値生産に寄与することで生活をさせていただいています。 当社にとっての付加価値生産とは当社の事業とは何であるか?の答えでもあります。

当社の事業とは、「それ」を生産・増産すれば誰もが喜び、幸せになるものです。

「それ」とは「愛」です。
愛の無いところに愛が出来れば人は喜び、幸福になります。
「愛」が少ないところに愛が増産できれば人々はさらに喜び、幸せになります。

では愛とは何であるか?

戦争でのナチスのした残虐な行為、日本の戦争でのこと、アメリカの残虐な空爆、それらは愛ではない。

旧約聖書: 詩編 103編1-22節
・ 新約聖書: コリントの信徒への手紙一 第13章1―13節
信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である

13章4節―7節
愛は寛容であり、愛は情け深い。また、ねたむことをしない。
愛は高ぶらない、誇らない、無作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。
不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてに耐え、望みを捨てない。

儒教での最高の徳目は「仁愛」です。

さて愛を創る最初は何であるか?

「ホスピタリティー」です。

これはヒューマンスキル:「人間力」の中のコミュニケーションスキルの核になるものです。

この言葉の語源は「ホスピス」から来ています。1つの説ですが。
ユダヤ教ではいつか救世主が現れる、と予言していました。その救世主をユダヤの大工の息子、イエスである。と信じる人々がキリスト教を形作りました。
そのときユダヤを支配していたローマ軍に迫害され、キリスト教を信じる人々は地下に逃げました。その逃げた人々が「ホスピス」をつくりました。
キリスト教徒同士が出会うとき、魂の兄弟でありました。
「私はあなたの存在を大切に思います。あなたの全てを否定しない。あなたの全てを受け入れる」そのため無償の宿と食べ物を差し出します。
あなたを大切に思う、という言葉だけではないなく、あなたを大切に思いそれを「行為」で実行する。 それを表したのがホスピタリティーの始まりなのです。そこからホスピタル(病院)、ホスト(歓待する人)などの言葉が派生しました。

現代のホスピスというのは手当てをしても助からない人に、最後の生活の質(クオリティー・オブ・ライフ)を高めて、 苦しみでその人の生を終わらせるのではなく安らかに幸せに終わらせる近代医療措置を持った終末医療の場を指します。
これは1900年代に入ってイギリスのシシリー・ソンダースという女医が始めたものとされています。始めた理由は女医の病院に入院してきた患者との恋でした。
その患者が死に望んで託された財産でホスピスを始めたということです。 インドのコルカタである修道女が道で倒れている瀕死の人々をケアするため、その人を引き取り手厚い看護を数十年に渡り献身的にした人が、それがマザーテレサです。
この終末医療のケアはインドでは数千年前から「死の家」としてあったということです。
そしてこの行為は「愛」です。 人間としてもっとも大切な生き方は「人間力」を高めることです。

アイ日本総合ビジネス学院の事業とは何であるか?

「ホスピタリティーの生産・増産に寄与するサービス業である。」

それは、人が幸せに生きるために必要な、愛の生産・増産に寄与するサービス業である。

上記の目的達成のため、毎日努力し続けるのが、「生きる」ということではないでしょうか。
それが我々の仕事です。

職業訓練と当社の理念

当社では職業訓練の目的を伝えます。

一般的に職業訓練の目的は就職することです。
発注元の県、機構、厚生労働省、労働局も同じ見解とおもいます。

しかしその上の目標があっても良いのではないでしょうか?

人生は長い。その中で自己理解、仕事理解、啓発的体験、職場適用、の螺旋を描いて生きていきます。
原本はキャリア講話の中で旅行添乗員の話をします。

自分自身が旅行が好きで旅行主任者として働きたい⇒旅行主任者資格の取得⇒旅行業務の企業へ応募⇒OJTなど職場適応 ・・・・・・
しかし自分がお金を払っていく旅行と添乗員など世話をするほうでは旅行の楽しさが全く違うことに気づく。 ⇒転職を決意する。
このように自己のキャリアは変遷していく。

さてこの中での旅行企業へ就職は最終のゴールでしょうか?

職業訓練での就職は1つのゴールであって最終ゴールではなく、いわばその就職は1つのスタートなのではないでしょうか?

職業訓練のスキルで当社の理想はテクニカルスキルの獲得とヒューマンスキルの向上です。

テクニカルスキルは数年で陳腐化するがヒューマンスキルが向上し豊かなコミュニケーションスキル、 ホスピタリティーが身に付けばそれは一生もののスキルです。
そのヒューマンスキルを向上させるのは自分自身の「気付き」です。

職業訓練を始めて1ヶ月で良い条件の就職先が出たらそれに飛びつき就職するとしたらヒューマンスキルはその方の身に付いたのでしょうか?

一生に職業訓練を受講できるチャンスはそう何回もめぐってこない。
アイ日本総合ビジネス学院に出会うこと事態がそう何回も無い。
数字の上では就職はゴールで役目上それで終わっても良いと考えることがあります。
現に県、厚生労働省、労働局などはそうです。

しかし我々には単に1つのゴールで仕事を終わった、と考えるなら永続する企業を作ることが出来るでしょうか?

当社の職員は誇りと尊厳をもって、上記の理念を実践して生きていきましょう。

ヒューマンスキルの開発

当社の職業訓練の目的、目指すもの

良い就職とは何か?
その人の人生で自己実現できる職場とは何でしょう?

自分の個性を活かせる仕事、仕事にやりがいを感じ、仕事を好きになり、生き甲斐を持てる仕事、そういう仕事に出会ったならそれが良い就職ではないでしょうか? 職業訓練は単なる技術の習得で良いのでしょうか。

例えばいくら立派な技術・資格を持っていても「嫌な人間」ではどこの企業でも採用は難しい採用しても企業という人間集団では 「嫌な人間」は周りから孤立し長く続かないでしょう。
また時代とともに技術は変わります。
過去に必要とされていた技術でも、 今は必要とされていない技術はたくさんあります。
テクニカルスキル・技術の更新も必要です。
しかもその人の持つ技術を活かすのは、その人の持つ人間性が開かれる時です。その結果他人はその人を応援して手助けしてくれるでしょうか?

キャリアデベロップメント、ヒューマンデベロップメント、人間性の開発とは何でしょうか?

人間性の良い方向での開発は、自己のもつ個性に沿った普遍性のある価値観に基づく行動、行為の実行に自我を見出し、確立すること。
さらにその自我をより良く発展させること、自己の知らない自分の持つ可能性に気付き、それを実現し、発展させることが、より良い人間性の開発ではないでしょうか。

それにはまず自己の開示から始めなければなりません。
他人を受け入れることから始めなければなりません。

ゆえに当社の職業訓練は
訓練生の人間性の開発・ヒューマンスキル開発を目的とします。

ヒューマンスキルの開発の基礎はコミュニケーションスキル、コミュニケーションスキルの 入り口はホスピタリティーです。

ホスピタリティーとは他者を否定しないで、全てを一旦受け入れる。共感を持って時間を共にする。 向かい合う人を大切にし、それを「思い」で終わらせることなく、「行動」で現し真の交流を持つこと。

・・・・・相手に愛を与えることです。

当社とは何であるか?

質疑と応答編

人間は進歩しているのか?

第3文書「存在意義」を拝見して

札幌校 A

 「成長」って何でしょうか?「進歩」って何でしょうか?ある経済学者が言っていたように、人は歴史を含めて今現在存在するものを効率的である、 昔のものよりも優れていると勝手に考えることから始めてしまう。効率的なのだろうか?前に進んでいるのだろうか?というようなことをこの文章を読んでいて考えました。

 さて、社会が変化する、人がそれに適応しようとし変化する、そしてまた社会が変化する。 「個人個人がお互いに物理的生存を補い合って生きてこられた」村社会が、都市社会が、国家が変化していく。その変化はインターネットの出現でよりスピードを増している。

 実は私はその変化をあまり感じていません。なぜだろう?と考えます。約15年前にウィンドウズ95が出て、ワープロを使わなくなりました。 アナログ回線で電話代を気にしながら遅い通信速度で、当時は誰もが慣れていなかったので、拙いホームページなどを見ていましたが、 いまや光ファイバーが引かれダウンロードでストレスをためなくて済むようになりました。私は特徴として本屋で本を探すと頭が痛くなるのですが、 本屋に行くことなく文字を入力して検索するだけで自宅に送られてくる・・・決済システム・・・納税システム・・・。 その前後の15年20年を比べると変化のスピードがどれくらい大きいのかは分かります。でも、私はそれでもあまり変化を感じていないような感覚があります。 これはなんだろう?と考えると、人は与えられた環境を当然のように受け入れてしまうからなんだということに気が付きました。 不便だった時代のことは今となってはあまり関係の無いものにしてしまうんだと、そういう結論に至りました。結論に至りましたが、 冒頭の私の疑問、人の歴史は進歩の歴史なのだろうかと言う疑問はまだ解決されませんでした。

応答:個体の進歩?種の進歩?

 日本では明治期、西洋文明への対応として西洋化を進歩と捉える政策と、その適応が国単位で促進されました。 さらには教育勅語による日本国民の皇民化政策では進歩を国民の義務と捉えるように「教育勅語」が日本中に発布されました。 進歩しなくてはいけない、という概念は個人の努力をうながす社会の圧力で、個人の心を進歩への飢餓感で満たしました。 どんなに努力してもその先への進歩義務におびえるように社会装置化がなされ、マウスが回る輪の中を一生懸命死ぬまで走るように、 世代を超えて社会風潮として受け継がれています。

 さて、色々な進歩のカテゴリーの中で終わりのない努力義務、我々が進歩の飢餓感から脱するため、進歩を客観的に捉え、 整理し、開放されるためには次の点を注視する必要があります。

 ダーウィンの進化論では、進化は変化する自然環境を生き続けるために、個体が自然環境に順応し変化することを進化としています。 進化は生きて行くために必要だと。しかし、この生きて行くための種の進化と固体の進歩。成熟は次の点で混同されます。

○文明をシビリゼーションといいます。文明の利器といわれるように人間生活の利便、人間が歴史的時間の経過・社会化の過程で獲得した知識により、 生活の利便をより少ない労働力で達成する。洗濯機の無い時代は恐ろしく洗濯に時間がかかった。これは進歩しているし、 人間社会が多くの人口を抱えて社会化していくのに必要です。数値的であり比較・測定可能なものでしょう。

○文化をカルチャーといいます。これは進歩という概念ではくくれないものです。10万年前に人間は社会を構成していたでしょうか?
 およそ数千年前に村社会が誕生し、社会化が始まったとき、「人間とは?」が誕生したのでしょう。 キリスト教の元はユダヤ教で紀元前500年前に集大成されたものが旧約聖書です。イエスを救世主と捕らえるのがキリスト教で 西暦はAC:キリストの誕生を起点としています。
村社会から都市社会への変化、地縁・血縁社会から産業革命の動力開発により、余剰生産物となる「商品」の誕生があり、 社会化のスピードが一挙に上がりました。同時にゲマインシャフト(地縁・血縁などにより自然発生した社会集団)から ゲゼルシャフト(利益共同体)への移行による人間性の変化。エーリッヒ・フロムの「エスケープ・オブ・フリーダム」に 詳しく紹介されています。その中にはナチスドイツがいかにして誕生したか。「人間性とは?」が書かれています。
 カルチャーはその時々の社会が生み出している。その時々の社会の持つ特殊性がカルチャーを特徴付けています。 それは進歩という概念では計れない。アメリカインデアンの文化はアメリカインデアンの、その時代の人の文化であり、 現在の文化と数値的比較しても意味は無い。しかし人間の限られた寿命は一緒です。その限られえた寿命の中で 人間はどうしたらより良く生きていけるのでしょう?進歩という概念で計ることの無意味さを「人間は進歩しているのだろうか?」と言う疑問になる。
 人間の個体の成長は必ずあります。死ぬまで成長は続きます。その成長は良い成長も悪い成長もあります。 年齢とともに体が成長し腕力が大きくなって暴力で他者を威圧するのは悪い成長でしょう。できたら良い成長をしたいものです。
 この変化する社会の中で、真の自己(コアキャリア)を追求し自己の個性を発現し他者との関係性を充実させ、 その反射として己の人間性の充実感が生まれる。これは人間とは何か?人間は何のために生きるか?の問題です。

 変化するというのはエネルギーが流れることであり、エネルギーが流れないことは死である。 より良い変化とは、人間社会、それを構成する個人、企業にとって、より良く「生きる」事、間違った変化とは、 人間の、企業の能力、エネルギーを間違った方向に使うことと書かれています。自己の利益は他者の利益とつながっている。 そうであるからその存在が社会から認められ、応援されます。

 冒頭の疑問が解決されました。人間がより良く生きているかどうか、それが尺度なんだと気が付きました。 ただ、社会が進歩してきたのかどうかは分からないままです。少なくとも、進歩できるように頑張ろう、そう思いました。

企業と人

朝日新聞1月27日(水) 10Pの経済気象台という欄に次の記事が掲載されていました。

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 今の時代は、社員自身が会社の将来を思い、業務のあり方や顧客満足度などを、改善に取り組み続けるような企業でなければ生き残れない。
決まったことしかやらない社員、権利を主張するだけの社員などを抱えた企業は早晩破綻する。

 マーケットの変化にいち早く追随し、あるいは先取りし、さらには自らマーケットを変えていく、いわば挑戦と変身し続けることを企業は求められている。
 社員がそのための力になるのか逆に重しになるのか、この差は大きい。社員は経営者を写す鏡。

 上に立つ者の器量とマネジメント次第で彼らの意識は大きく変わる。・・・

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 上記は当社の職員にも当てはまることです。

就職難のこの時代、求職者の中で、自分の労働条件ばかり言う人がいる。貢献して言うのならわかるが貢献もせずに 良い労働条件ばかり言うのは自分自身を売り物にしていることではないでしょうか?

「その値段なら自分を売れる!」すべての価値を金銭に置き換えることを自分に課している。悪魔がささやくときがあります。 自分を売れ!と。他者が自分の魂を育ててくれますか?自らの魂は自らが育てなければ。

 多少金銭が良くても働き甲斐、生き甲斐を考えずに仕事を考えるのはどうか?夢の大きさで仕事を選ぶほうが、 正義や人間としての誇り、堂々と他者と交流できるステージで努力するほうがずっと良い人生になると思うのだが。

  職場の上司も問題ですね。諸君の上司は言葉だけではなく、心の底から人間としての価値観を共有し、より大きな夢、すばらしいビジョンをもっているでしょうか?

指導

 我々はパソコン教室、カルチャーセンター、職業訓練をしております。しかしそれは表立ってはテクニカルスキルの伝達が中心です。
 就職サポートも仕事です。それはあくまで受講生本人の就職意識向上、就職機会のサポート、人間的成長のサポートです。

 キャリア研究で得られた成果は、人間が今日、自然に行っている「行動」の根拠が少し整理、科学され、こうすれば良いのでは?のレベルです。 本質的な人間的教育は成立していない。
 AがBのその生き方を変えられると考えるのは間違っています。人が心底、変われるのは自分で自分のあることに気づいたとき、「気付き」が自己の変革なのです。

 ひとは誰でも良いほうに成長、向上したい。しかし悪い成長もあります。無垢な赤ちゃんが大きくなって悪事を働くのがそうです。 そこにいろいろなコンプレックスの問題もあるでしょう。

 さて人間の本心というのは2つあります。
 ネットの2チャンネルのように自分の氏名を知らせずに無責任に発言するとき人間の悪い面が簡単に出ます。 しかし本名でしかも利害が直接自分にかかわるときはその本人は自分を良く見せようとするでしょう。

 2チャンネルの場合と利害を計算して行動する自分とどう違うのか?
 自分の悪い面が自分の正体であると考えるのは短慮でしょう。その悪い面も自分なら、向上しようとする面も自分でしょう。

 さて我々の仕事ではどちらの面を育てるのが良いでしょうか?

2010年の抱負

 今年も昨年に引き続き当社は企業活動での収益の両輪[1.パソコン教育=職業訓練] [2.カルチャーセンター]を推し進めてまいります。

 さて今年の目標は新しいものではなく、昨年に引き続きこの企業活動に参加する職員全員が生活消費財に不足することなく、 かつ働き甲斐を感じ、さらに生きがいを感じられる職場作りを達成することを継続していきたい。

  • の[パソコン教育=職業訓練]はパソコン、マイクロソフトオフィスの教育だけではもはや立ち行かず、 その他の教育科目、簿記会計、宅建、企業総務での運営技術などが入ってより高度で複雑な社会運営技術が入ってきています。 パソコン教育のほうもCAD、ネット構築、プログラミングといった高度で職場がほしがっている技術に沿ったものが要請されてきています。 もはや個人や小さな団体では立ち向かうことが出来ない様相になってきています。
  • の[カルチャーセンター]のほうはまだ当社の手法が頭の固い権威主義の大手カルチャー業界が気づいていないので うまく立ち回れば発展する余地は大いにあるでしょう。 今年は高松で110坪のアイカルチャーセンターが2月1日にオープンします。関西5課長山本直樹が業区8課四国課長として、 いまこの1月4日にはもう赴任しています。

   さてこの2つの今年の方針ですがそれは当社の企業理念から導き出される着実な歩みの1つとしての理想実現を新年から始めていきたい。

 その理想とは「この企業活動で出会う人々が幸福になることを目指す」ということが原点です。 幸福とは定義しにくいものです。ただ少なくとも人として、その属している社会に共通する生活消費財の不足が無い状態 (貧しい社会は貧しいなりに、豊かな社会はそれなりに)と働くことを含めての人間活動の充実感=働き甲斐=生きがいが感じられることでしょう。

 人間的に良い成長をして到達した素晴らしい人間!それは幻想と見えるかもしれない。 まず、良い成長は固定されたものではない。良い成長を続ける、その状態を維持することが素晴らしいことであり、 「到達した人間」は一瞬にして過去のものとなる。そこから転落もする。

 人には動物的側面と人間的側面があることは前にも言っていますが、その2つは人の一生涯、付きまとう課題です。 高僧が高齢になり、不謹慎な発言、行動をする例は多くある。それは避けられないものです。 であるなら今後個人が幸福を追求するにはその2つの側面を考慮して充実した人生を築いていくほかは無い。

 動物的側面はコンプレックスなど個人的要素が多いので個人で格闘するしかない。 がコンプレックスは人間的側面が大いに関係するからその格闘する場合は人間的成長をぶつけていくことが有効と考えられる。つまり「折り合う」こと。

 さて人間的側面の良い成長とは?なんだろう。
 これも何回も繰り返し言っていることだが、「向かい合う人」「出会う人」の幸福を願い手助けすることだろう。

職業訓練がメインになっている当社に昨年度から発生している問題、課題があります。 それはキャリアの話しで全国廻っている原本が感じ、掴んでいることです。 訓練生にはキャリアで「人間的により良い成長をするため」仕事に就くときどうしたら良いか、話をするのですが、 その訓練生が卒業するときにどうなっているか、です
 原本が話しする内容は程度の差はありますが理解しています。しかしそれは心からではなく、単なる知識として、です。
 これは当社の職員も同じ状態です。職員だから心から理解している?とんでもない。 訓練生のほうが人生理解が深い人もいるでしょう。問題は人生を上っ面で理解している訓練生の本音がやはり「良い給料、多い休日・・・」など 働く就職の条件面に重きを置いていることです。

 しかしこんな格言があります。
 「お金は影である。影を追いかけても追いつくことは出来ない。 しかし自分がしたいことで社会的成功があればお金は影のように自分についてくる。ちょうど影のように」 そしてお金が大量に獲得できたとしても幸せになれるとは限らない。

 条件面だけで職業を選ぶのは影を追いかけるようなものと考えます。
 そこで当社が質の高い職業訓練を達成する方針として職業訓練の最初から職員が下記のことに本気になって取り組んでほしい。

  • 自己を理解して、自分は何をしたいのかを熟考させる。(それなりの時間も用意すること)
  • 自分は何が出来るのか(能力チェック:パソコン技術は最早出来て当たりまえという前提でその他のスキルアップを考えさせる)
  • [1][2]をよく熟考して現時時点でそれが折り合う職業を探す。
  • そのためにどういう努力をしてスキルを上げ、目標を達成するか。

この[1][2][3][4]は人生のそれぞれの時代で変化し循環していくでしょう。
つまり訓練生に条件面に惑わされない本人の心の核となる仕事をするように意識改革をしてもらうこと、これを今年の職業訓練での指針とします。

カルチャーセンター創りでは出会う人々、講師、受講生とスタッフがより、濃密な関係を作りまことの交流を実現すること、 そのために当社アイカルチャーの手法を着実に実行することです。

最後に今年は「あなたは、どれだけの人を幸せにしましたか?」のメッセージを皆さんに贈ります。

当社の講師像

当社の講師像をHPにも公開していますが、さらにもう一度確認します。
◆人事採用情報ページ
当社の求める人材とその評価

 当社の講師は俗にいう小・中・高校・大学といった行政の定義:現社会の存続、後継者育成の要素が強い「先生」を理想とはしません。 人が人を権力、力で左右する、他者の存在を規定するなど、そんな自由は人間には認められていない。いやそんなものを自由という概念は無い。

 当社にはパソコン、簿記、いろいろあります。
 しかし、それはビジネス界のその分野の1技術を1歩、数歩前にいっているだけの存在です。 人間的に講師が受講生、訓練生より優れているとか、人生経験が豊富であるとか、は言えない。年齢でも講師より高齢者が多く、その人格的尊重は当たり前です。

 近頃では心の情緒、ライフバランスが通常とは異なる型の受講生、訓練生が見受けられます。 原本は前に職業訓練生について「就職、転職で傷ついている・・・」と伝えました。
他者の自由を尊重しない人、自己の自由と他者の自由はリンクしている、いわば同じものであることを理解、 自己の心としていない人は当社の理想の講師ではありません。 集団訓練、職業訓練で自分の価値観で他者の迷惑を実行する人は断固、集団から退場していただくのは当たり前です。 がそこに自分の価値観が働いていないかの検証をしていく必要があります。

 アイ日本のHPで、上からしゃべる人は当社の講師像ではない。 とはっきり企業として宣言しています。これは自己の過去の価値観のみで目の前にいる人を判断して その価値観の範疇に目の前の人を押し込めてしまうことを避けるために言っていることです。

 訓練生、受講生が自分の人生を自らの意思、自らの気づき、自らの生き方を決定しいくサポート、 お手伝いをして報酬を得る。我々はそういう企業の一員としてそのことを「仕事」とします。

破れ窓の理論

 車を放置しておく。1台は窓を全部きちっと閉めておく。  もう1台は窓のひとつだけを開けて放置しておく。

 数日後窓を閉めているほうはそのままだが、窓を開けておいたほうは全部の窓が割られ、中もぼろぼろの状態であった。 ここから破れ窓がひとつでもあればその車に対する注意や関心は少なく、大事にされていないから、後の窓も破っても罪の意識があまり発生しない。 ということで車全部が壊されていく。という理論です。

 この実験に基づいて良い治安を取り戻したのがニューヨーク市です。ある時期のニューヨークは地球上で一番治安が悪く観光客が激減していました。 そのときの市長は(ブルームバーグ?)破れ窓の理論を聞き、世界で一番治安が悪い地下鉄の清掃から始めました。

 落書きを消し警備員を導入し、喧嘩を防ぎ、不正乗車をなくし車両の清掃を徹底したのでした。 そのほか市全体の清掃にも力を入れたところ、数年後にはニューヨーク全体の治安が大変良くなった。ということです。

 これに関して、ある本の著者は飛行機のテーブルのコーヒーの輪染みの汚れを放置する航空機はその整備もその程度である、と看破しています。 世界で最大のチェーン店であるアメリカのコーヒー販売店の従業員に対する徹底した教育は業界では非常に有名です。

 原本もひとつ経験した中に似たようなものがあります。日本のコーヒー販売店では「ドトール」が有名です。 最初のドトールの顧客への応対は「この値段で!」と驚くような非常に丁寧で、感動さえ与えるほどの接客でした。

 ところが今のドトールはその対応が普通以下でないでしょうか?店舗展開でも見本となったスターバックスとは多くの開きが出てきています。

 さてわれわれパソコン教室業界でも同じことが言えると思います。何をこうしろ、こうしなさい、とは言いません。
このメールを見た一人ひとりが自己のこころ、この仕事に対する「思い」の強さ、が「破れ窓」を見つけ修復する行動基準になると思います。

 当社は単純な技術指導で自分たちの生活を守ろうとは思いません。どうせ仕事するなら素晴らしい仕事をしたい。
従事している職員から見たら些細なことでも顧客から見ればそれが「破れ窓」に見えることが多い。

 原本は常駐するところでは常に顧客の目から見よ!といっています。
従事している職員から見える受付と相対する方向から見た受付は違って見えます。
陳列台もそうです。不揃いや散らかっている状態を放置しておくと、ここのパソコンやカルチャーセンターは顧客を大事にしていない!と取られます。

 そういうところは成功するでしょうか?

永遠2(スタートⅢ)

スタートⅢ 永遠への架け橋

 38歳のときこの企業を作りました。
今日、当社の現実と理想との不協和音にやっと
「ハーモニー」を作れそうです。
 テレビ番組でのアシックスの鬼塚さんの企業像は靴から始まって、
「世界中の人々、特にこれからの高齢社会、福祉社会で人類の健康に寄与する」    稲盛さんの「答え:企業に参加する人々の幸福実現、人類社会の進歩、
発展に寄与する」   
松下 幸之助の「答え:水道哲学での人類の幸福実現」

原本の生きることへの解釈

  • アイ日本総合ビジネス学院は
  •  出会う人が、より多く幸福になるように努力し続ける。
  •  この仕事、労働は出会う人々の幸福に協力、リンクする。
  •  自己の存在意義を十分感じることが出来る。
  •  他者の反射としての自己の存在を認識する。

 実はこの「答え」は前にも書いているのですが。原本がストンと心に納得したのは「より多く」ということです。 エネルギーは充電と放電を繰り返します。人間の「生」は生まれ、育ち、老い、死んでいくことの繰り返しです。

 原始仏教でのゴータマ・シッダルタ(仏様)は現在のインド釈迦族の実在の人物ですが人生は「苦しみの連続」である、 だからその苦しみからの「解脱」を説いています。

 しかし80歳を超えて死ぬ間際にこう言ったと伝えられています。「この世は美しい」これは一見矛盾しているように聞こえます。 この世は苦しいのではないか?がそうではないと思います。

 美しいから、「幸せ」とは限らない。美しいけどこの世は「苦に」満ちている。苦に満ちているけどこの世は美しい、と原本は考えます。 つまり生き方の問題が幸、不幸の問題であってこの世の現象は幸福になれる、可能性を秘めていて美しいといっているのだと思います。

 自然現象でも人間にとって酷なものはたくさんあります。寒い、熱い、水を汲む、ということだけでも大変な労働である地域もあります。 これも人間にとって「不幸」です。しかし人間社会が「不幸」の種を人為的に作ってもいます。

 仏教ではこれを「カルマ」日本語では「業」としています。人間が自ら「不幸」の種を作って不幸になっている現実があり、 少なくともその人為的な「不幸の種」を作らない生き方を提唱したのが「仏教」なのです。

 努力しなかったら、どうしても発生する「不幸の種」を自分が作らないように生きなさい。 自己のコンプレックスからの些細な欲望から自らを不幸にしている「不幸から逃げなさい」と教えていると考えます。 不幸の種を一挙に取り去るのは容易ではない。しかし「努力する」ことは出来ます。  その「努力する過程」が「より、多くの人々」が幸せになれる「道」であると考えます・老子の「タオ=道」でもそのようなことを説いています。 その「過程」が生の実相だと思います。

 出会う人すべての後ろには出会わない人すべて、が含まれています。そしてまず、自分を最初に入れましょう。 個人の影響効果はしれています。しかしすべての「影響」は個人の「人」から出ています。

 原本がこの企業のネーミングを1990年になぜ、「アイ日本総合ビジネス学院」としたのか? 「人は明日、死ぬと判っていても苗木を植える生き物である」これはプロテスタントの始祖マルチン・ルターの言葉といわれています。 つまり無償の労働、趣味のガーデニングも「働く」と解釈すれば、広い意味での「働く」ことなしには人間の「生」は成り立たない。 そこから、その当時の日本語の「働くこと=ビジネス」がそういうニュアンスに近いと考えました。実は他にもあるのですが割愛。

 しかし、去年に受講した「キャリア・コンサルタント養成講座」ですでに100数十年前のアメリカで「働く」 意味の解釈が生み出され科学されていたのが判りました。

 それが生まれた背景は、その当時のアメリカでの移民労働者でした。 何の手に職を持たない移民をどうにかして職につけるための部局に働いていた人々がどうにかして その移民たちが幸せな職に就けるように考え抜いた方法論でした。それが仏教や道教、その他の宗教と同じ方向を指し示していたのです。

 自己理解→職業理解→啓発的体験→能力開発→就職

 日本の禅の学者、鈴木 大拙をインチキ的だと思ってその偽善を暴こうと考えていた 西洋の心理学者・哲学者(原本の記憶ではユングだと思いますが。)がいました。 訪問した最初に鈴木大拙に「あなたは何者であるか?」の問いに答えられずその心理学者は絶句した。というのがあります。

 エリクソンとういう心理学者は人間の個人の心の成長発達過程を研究し分析しました。 子供が成長し徐々に自己で生き抜ける肉体と行動判断力、パワーを獲得していく過程で、自己とはこの社会の「こういう役割を担い」 生きていくのが幸せにつながると確信してそのように生きていく、いわゆる「自分らしさ」の自覚。マズローの欲求5段階の過程でもあります。

 人間の成長過程で自然界から人間社会の複層的は価値観、役割から自己にとって最適な生き方を模索していく中で 自己=自我をどう役割分担して社会の中でいかにポジショニングしていくか?納得して生きていくか。思春期から始まり終わりの無い 「自我の確立」の問題です。

 一般に自我はアイデンティティーと言われていますが、これはエリクソンの表現した a sense of ego identity からきています。日本語では「自我同一性の感覚」と約しています。

 個人が成長し、自分の用は自分で出来る年齢14、15歳ぐらいでしょうか。 その時期はまた自分を他者が違うことを意識する年齢でしょう。 さらに自分確立は「死」に認識につながります。死を納得するのは容易でない。死に対処するためには永遠を意識せざるを得ない。
自分が死んでも残るものは何か?
普遍的価値とは何か?
もし、普遍的価値に基づき自分の人生を築くことが出来れば死は単純な終わりではなく 自分の生の完成になるのでは。自分の行動特性に普遍性を見出し、そこに自己表現、自己実現の可能性を見出し、 他者から自己のその普遍的価値観の行動特性に確実な評価を見い出し、実証的に自分自身が自己を信頼する時、 自己の存在に有意義性と自信を持つ感覚、が「自我」といわれています。

 さて、思想、宗教、科学、と色々な分野で人間の生の意味が問われ、解釈されています。 個人よって表現は色々です。京セラの創業者稲盛さんは自己の「生きる意味」は自己の「魂を磨く」為、といっています。

 65歳で仏門に入りました。あるとき雲水としてお布施を貰って歩いて夕方、疲れきって帰ってくるとき。ある老女が庭を掃除していました。 自分を見つけるとよってきて100円をそっと差し出し、何気なく戻っていきました。

 そのとき数百億円の自己資産のある稲盛さんは「自分の体の全細胞が喜びに沸きかえった!」と。 生まれて始めて宗教的法悦体験を経験したそうです。そこから人生は「自分の魂を磨く」ことだと感得したそうです。

 そして自分ひとりでは自己は「磨けない」のも事実です。 「働く」ことは「交流」ということでもあると思います。 100年以上続いた北陸、和倉温泉の加賀屋はプロが選ぶ日本一の宿に26年間1位に選ばれています。色々な要素があると聞いてます。

 そこの女将が素晴らしい「気遣い」の持ち主でお客さんとの何気ない会話から、旅行が誕生会なのか、 兄弟の親睦なのか、家族の誰のお祝いなのかを察知して記録しておき、床の間に誕生日ならそれらしい飾り物を何気なくしておく。

 その心遣いを非常に喜んでくれる、感謝されると、ありました。 宿泊代金が高くてもそれなりの価値を納得するのはこういうところだと思います。これも「交流」です。 当社のカルテもそういう位置づけです。そのカルテを前もって見て、その方との交流を図る。「自らが率先して」 先生様になって相手に要求するのでは交流にならない。

 「働く」のは「自ら能動的に。積極的に関わる」ことが本質です。いわゆる「働かされている」のは奴隷労働です。 当社は「自ら働く」人の集まる企業を目指します。明日からでも自分のところの受講生さんの ちょっとした知っている事実に基づき「心遣い」をやってみてください。「働く」ことの自分に帰ってくる素晴らしい体験が出来ると信じています。

  • スタート Ⅲ
     
  • 人々の「キャリアに関わる」ことをこの企業の方向とする。
  •  
  • この企業に関わる人が、自己実現し、幸せになっていく、そういう人をより多く誕生させることを目的とする。
  •  
  • その達成のため、継続的に能動的に働いて生きていくことをこの企業の存在目標とする。

※キャリアの意味は前に送った原本講演録に書いてあります。

当社の方針と当社存立意義

当社の方針と当社存立意義
 最近当社の指針が判らない、とか当社で未来が描けない、10年後、20年後の自分が当社では描けない。 ということをちょくちょく耳にします。これを良い機会として経営者である原本が若干の資料を添付で送ります。

 根本は当社のパンフレットと『スタート2』に書いて有ります。
当社の目指す方向と当社の成立意義については各種企画書に書いて有ります。
人間相手の仕事です。当社の目指す方向を書いているつもりです。

 今現在もその通りです。嘘偽りで作っているのでは有りません。
自分の人生は自分のものです。他人にとやかく言われて生きていくものではありません。

 生活が出来て自分の価値観の方向性がその企業と同じ方向であればそこに身を置き、違えば去れば良いのです。
自分の価値観とまったく違う価値観を持つ企業に働くのは生きていくのに苦痛です。

 上記疑問のうち「10年後20年後の自分が描けない」の疑問だけはここで言っておきます
10年後、20年後の自分の理想を追いかけて生きていくのはすばらしい人生です。
しかし10年後20年後の自分の姿を描きその通りに成る人生はつまらないとも思います。では後の添付をじっくり読んでください。

当社の社風

当社の経営方針  当社はここで働く人々の個性が存分に活かされる職場作りを目指したい。金銭獲得無くして会社は成り立ちません。

 しかし金銭獲得の量をして人間幸福の第一義とは考えません。 お金が無ければ生活は出来ません。お金を獲得すること自体が働く目的で有るなら人間性は2の次に成ってしまいます。 しかし必要なお金は稼がなくては生活できません。

 お金は人間が幸福に成るための手段です。

 人間の本質的な要素のひとつに「競争」が有ります。「競争」は闘争とイコールでは有りません。 「競争」は他者との物理的な面も有りますが時間軸を競争の概念に入れなければ成りません。過去の自分と今の自分と未来の自分などです。

 より良い自己実現は一種の競争では無いでしょうか。昨日の目標が達せされたときには次の目標が生まれる。 幸福の継続とはそのことではないでしょうか。

 この仕事は莫大な金銭を獲得できる性質のものでは有りません。 しかし莫大な金銭を獲得できなくても働く人の個性が最大限発揮できる職場は作れると思います。

当社出発点MFS

MFSプレゼン報告
 北海道旭川の加藤先生の作ったCDで中国広島、九州福岡、山陽岡山と2日かけて新聞社の担当責任者にプレゼンしてきました。

 好評でした。音楽とともに感動が盛り上がりそれがこちらにも伝わってきました。 来月娘さんが結婚式の方がおられ、真剣なまなざしで見つめていました。 やはり、「絆」はかけがえのない「人間存在の基盤」なんですね。

 菊地先生が釧路の実家へ古い写真をとりに帰った時、高等学校の校長であった父親が家族の写真をスクラップしており、 それに「きずな」とあったそうです。本人もびっくりしたと聞き、 何かこの企画が運命的な人々の参集をしているようで「天」の配慮でしょうか。

 E・フロムの「自由からの逃走(エスケープ・オブ・フリーダム)」に近代社会が築きせっかく獲得した 「自由」から、いかに人々がもろくも「ナチ」にその存在基盤である人間の絆を譲りわたし、 かつ、「ナチズム」に絆、連帯を求めていったか、の過程が描かれております。 (この反省としての責任ある自由が私の思想の一部を形成しています。)

 個人の確立基盤である自由が努力なしには確立できないことがよくわかります。 この企画は単なるカルチャーセンターの1企画で終わらせることなく、 たとえ、経済的な成功はなくてもこのMFSはずっと続けていきたいと思います。

 当社の存在基盤をこのMFSにおき「出発点」としたいと思います。

 良い言葉があります。『出発!不断の出発が大切だ!』遠い目標へ向かって、 スタートを切って安心するのではなく毎日が「出発」の緊張感を持ちまた、新たな感受性でことに望まないと 日常性に埋没し感受性も気持ちも無感動になってしまうことの警告です。

『「志」とは、君、グライダーを飛ばすのに似ているよ。
            「まっすぐ!」「「高く!」!遠くへ!」』

 ものをなすには「一点集中」ですよ。君、虫眼鏡を知っとるだろう? むかし、子供のころ虫眼鏡で太陽の光を集めて紙を燃やしたことがあるでしょう?アレ、あれですよ。 燃え上がるためには力を一点集中しなければいけない。

 当社はこの「マイファミリーストーリー」を出発点にします。この講座が当社です。

 みんなの力を寄せ集めてください。
一点集中しなければ燃え上がらせることはできません。

 せっかくするのだから個人個人の「志」を持ってほしい。
できれば、「まっすぐ、高く、遠くへ!」

自分流に生きる&企業とは?

「自分流に生きる」良く言えば、他人の価値観に左右されない、確固とした自己を貫く。

 これは2つの側面から検証しなければ自己矛盾を起こす。

 最初の1つの側面は個人の気質の面です。例えば赤い色が好きだとか言う気質の問題です。

 ただ、この気質は社会的な問題より個人の気質問題に属しているので「解決する」とか言う次元ではなく、 各個人が忠実に自己主張すればよい事柄です。会社組織に取っては管轄外です。

 もう一つの側面は社会の中での自己の位置から出発する価値観に基づく社会的生き方の問題です。 これは多分に個人のコンプレックスに左右される可能性が否定できないパワーを根に持つコンプレックスの解消はパワーの獲得、権力等の獲得でしょう。 それでコンプレックスは解消されるとき人間性はマイナスからゼロの地点にたどり着くだけです。

権力には正常な状態と異常な状態がある。正常とは自由な話し合いに基づく自由意志の委託を受けた行政上の機能であり、 異常な権力とは話し合いの無い圧制を言う。

 努力によって得たモノは全て正しいとは限らない。そのモノが自己の変革を阻害し、自己の実現を低レベルなものにしてしまう場合もある。

 自己実現の本来の成長過程は自己を生きる=変化し続ける「自己」をその時、その時の自己に忠実な価値観で生きる状態であろうと思う。 自己に忠実に生きるのは難しい。第一に自己の価値観を認識するのさえ大変だ。自己より圧倒的な数の「他人」の価値観が蔓延している。

 かろうじて、自己の価値観を発見してそれを実行しようにも生活を確保する為、 他人の価値観に従って生きなければならない、と言う現実問題がある。

 資格は能力の証明には成るでしょう。しかし人間の中身の証明にはならない。

 当社では職員採用の基準として、どんな高級な資格よりその人の「人間」的な中身を重視して来ました。

 パソコン講師としてMOT資格を取得するのは素晴らしい。

 しかし、本当の「交流」する能力の方がもっと素晴らしい。採用するときその能力を重視してきました。

 本当の自己を実現するというのは一時の「自己」を実現して、コンプレックスを解消してそれでお終いではない。 1つの「自己実現」の後には新しい「自己」が誕生する。真の自己実現とは自己変革の連続を言う。

 東大を卒業してもそれによって暗記力と自己犠牲の能力は証明できても、他人の持っている権利や愛情を得られる、 と錯覚するのは大変な勘違いだ。愛情はこちら側から「愛する」働きかけで生み出される。

 あるモノを持っているだけでは何物も生みだしはしない。人間の中の膨大な能力(例えば掃除をする、料理をするのも立派な能力です。 ) の一部の能力証明とは全然別次元の話だ。

 自己の夢を追いかけるのは良いことです。(個人の夢を追いかけることをじゃまする権利は誰にもない。) この会社で働く人全員が同じ考えである必要はない。

 さて、本当の言いたいことを書きます。この会社が進もうとしている方向です。

 -多くの人の夢の本質=「人間」形成を実現する「交流」の「場」により自己の一つの実現を完成し、 さらなる自己実現へとチャンスを提供出来る会社にしたい。-

 これは、授業員が十数人の5年前に『スタート1』を書いたときから、ずっと変わっていません。 「君たちの夢」を聞いてきました。
(今も聞いています。どんどん言ってきてください。)

 現在、「働く」という言葉はお金を得るためにガマンして、自己を否定して、という人が多い。 しかし当社は本当の自己が出せる「場」でありたい。

 (当社にも金銭を頂いて授業をしているわけだから、当然生徒さんの望む礼儀はこちらとしては「尽くす」必要があるわけです。 それは自己を無くしたり、否定しているわけではない。「交流」は自己の働きから始まるのだから。)

 私は「仕事」は自己を表現できる重要な「場」だと考えています。 この会社がより多くの人の「自己実現」し続ける「場」である事を願っています。

 「何がしたい」と問いかけてもほとんど答が返ってきません。 一つにはその答を発するときの責任を重たく感じるのでしょう。
(しかし、人生にはそんなに多くのチャンスは無いですよ。)

 また、一つには自分が何を望んでいるのかが分からない、という人もいるでしょう。
いや、ちゃんと分かっている人もいます。それらを全部含めて言えることが一つあります。

 つまりこの会社の目指す中身です。それは本当の「交流」です。 「人間」は他人によって「自己」が成立する。他人の認識が無いところに「自己」の認識は無い。
真の「交流」により独立した個人「人間」が形成される。他人との関係の中に自己が形成される。 一定時点で止まるのではなく揺れ動く他人関係の中で自己変革し続ける事で正気を得る。それが「人間」の成長だと思う。 いや、何千年も人間は成長していないのではないか。

 自分の父、母、祖父母より自分の方が進化していると言い切れるだろうか?

 ある面白い例があります。「ナチスの実験」です。

 アメリカのスタンフォード大学での実験。 20人の学生に10人づつ看守と服役者に分けて2週間の予定で外界から遮断した刑務所でどんな心理が起きるかの実験です。

 最初は和気あいあいと刑務所ごっこをしていたが、ある場面で看守が看守の権力を使って服役者を罰した。 一応服役者と看守の役回りをしなければ成らないのでそうしたことから、大変なことが起こった。

 看守役がその権力に浸り始め再現のない暴力が始まり囚人の1人が死亡、何人かが怪我を負うことになった。 実験は中止になった。今、その損害賠償の裁判がまだ続いているという。映画「エス」に描かれている。

 最初は学生同士何ら違いの無い人間であった。それが置かれた立場で人格が一変してしまったのである。

 第2次世界大戦のナチスドイツでも同じ事が起こりました。ドイツ国民大半は善良な良い人々だった。 しかしユダヤ人の虐殺は一部の人だけの行為ではなかった。ドイツ国民の大半が係わったのである。

 「人間」は置かれた環境でこんなにも本質的変化をするのである。

 これは意識下のSと名付けられた深い欲望といわれるがそんな単純な問題ではない。
「正常な人間」を維持するのが大変な努力の結果であることをこの社会はまず認識すべきである。 そこから社会建設を始めるべきである。

 わたしは性悪説ではない。どちらかというと性善説だ。リバータリアイズムを信奉していた時期がある。

 「人はすべて自由にして秩序がある、と信じるが故に我々は自由主義者なのだ。」
有名な言葉です。

 しかし「自由は放縦を指すのではない。」これも事実だ。相手の権利を奪う自由は無い。 私は人間社会の理想を求めて数年間日本の理想の実験共同体を歩きました。

 そこで体験したのは理想どころか腕力が支配する弱肉強食の低レベルの村社会でした 働けない物は一切の財産を奪われて放り出される社会でした。 現実の社会を批判し新しい理想の社会建設を目指した優秀な人たちが建設したのはそういう社会でした。

 そして、そういう弱い人々を人間として保護したのは何と批判してきた「現実」のこの社会でした。 理想郷を実現する為に理想に反したことをする。何とバカな。 文献で調べた数千年のユートピア、理想の実験地の歴史はほとんどこの繰り返しでした。

 理想社会を考える前に「人間」とは何であるかを考えなければならない。

 人間は1人では生きられない。それは物質的な問題ではないと思う。 例えば自然に出来る食物の豊かな島にたどり着いたとして1人で生きていけるか。生物的には生きていける。 (ただ、今の我々のこの社会の中では物質的にも一人では生きていけない。)

 しかし、ある島に1人で生まれ、生物的に全く1人で生きていけた、として、その言葉を持たない「生物」は「人間」だろうか? 他人の存在は完全な自由にとってはどうか?日本には四季がある。 冬はマイナス気温になり夏は暑いときには35度を超える。その差40度前後は普通にある。 この四季を乗り越えられないと人間は死ぬ。これもストレス。  その他人にある権利が自己の権利を制限するという状態を認識すれば完全な自由は無くなる 自己の完全な自由から見れば「ストレス」である。しかし、そのストレスが「人間」形成の生みの親ではないか? 人間にとって有益なストレスを「ユーストレス」という。

 他人の存在が自己の認識に繋がり他人の権利が自分という「人間」を生み出す。 「人間」一人では存在できない。他人存在があって始めて生物学的猿が「人間」に成長する。 多くの他人が集まる社会では多くの権利がぶつかる。  では「生」を選択する生物個体はどういう方法でそのストレスを解決し生き延びればよいのか。 ここに、人間社会が生み出した最も偉大な発明があった。それは地域・世代・時代を越えたものである。

 「愛」である。それに代表される「人間」的な心である。

 それに代表される哲学全般は人間社会の最も有効な調整手段になった。 猿は存在そのもの、存在の本質を定義し直した。生物的存在より「人間」的存在を目指す事が人間存続の進化から学んだのである。

 その事実は長年の間の慣習さえ変化させた。その為には遺伝子さえ優劣順序を変えた 猿の歴史は全く新しい生物を作り上げた。それが「人間」である。

 生物の中では生殖能力の優秀さを形態化し、それが異性を誘引する。 しかし、人間社会は生殖能力のみを異性誘因とはしない。社会生活を成立させる最も重要な異性誘引の要素は「愛」である。

 一つおかしな例を出そう。

 相手の情に自己の情を重ねることを「同情」という。それにより感覚器官までもが連動するという。 マインドコントロールである。同情する度合いが強い人は自己の存在を否定してまで相手の感情に従おうとする。 そこには理性は無い。相手の感情に従いたいという衝動だけである。

 第一次大戦の賠償としてヨーロッパ諸国がドイツに行った処置に対してナチスドイツが行ったマインドコントロ-ルは有名である。 さらに異常な状況が「人間」を崩壊させるのはスタンフォードのナチスの実験で明らかである。

 コンプレックスに対してそれを解決するのは「人間的成長」ではない。マイナスがゼロに成るだけである。

 全てのストレス・コンプレックスを解き放ったその時には何が残るか。「猿」が残る。 人間の心はストレスを糧として成長していっているのである。悪魔は心のなかにある。神も心の中にある。

 理想社会の実現、それは一つの決定的制度では得られないものだ。答はない。

 正常である努力を続けるしかない。

 「人間」成立の要因、人類が何十万年もかかって獲得したこの遺産を承継するためには、大変な努力がいる。 「人間」として「正常」を保つことさえ尋常な努力ではない。

 唯一「人間」を維持するには人間が成立した原点「交流」という出発点を見失わないことだ。

 人類にとって人間存在の最大の守護神は多くの他者存在の尊重である。しかも個性にあふれたいろいろな人々の存在である。 その個性にあふれたいろいろの一人が私自身であり、君なのだ。

 『アイ日本総合ビジネス学院』は小なりといえども人類の到達した位置を守る。 「人間」的成長を目指す。交流する人間集団を目指す。

 いまこの社会の中で

◎貧とは何だ!物が無いのは素貧(スッピン)、心が足りないのは経験不足による思いやり不足、心貧しい状態、では 「人間的な貧しさ」とは何だろう-本当の「交流」が足りずに一定のレベルに止まっている状態だと思う、つまり交流不足。

◎変化する自己=自己の成長=を恐れるな!変化しない自己を恐れろ!

◎活き活きと生きたければ、過去の自己にも縛られるな、一番新鮮なのは変化する自己である。

◎一つの頂点を極めるのは一つの出発である。そこに止まっている限り次の成長、活き活きとした人生はない。

以上が学院の方向と創立以来12年間守ってきた学院魂です

初心者セットの意味

 当社の最大のヒット商品のネーミングだが初めてあるいはほぼ、初めてに近い人を対象にして、自分でもできるのかな? という不安と習うなら、ちゃんとしっかり、一通り全部という①能力的には0で、 しかし②全部一通りという矛盾を解決したのが「初心者セットコース」です。 ①の能力的な不安の問題は「初心者」で②の一通りは「セット」という言葉で安心させたのです。

 しかし最近「セット」という言葉を省略している地域があります。単なる「初心者」「入門」では当社のオリジナルな考え、 生徒さんに対する安心させる意味合いが薄れてきているのでは?

 「初心者」は「初めてのパソコン」に置き換えても問題はないが「セット」をはずすと当初の意味合いが薄れてしまいます。

 その名前と一緒に是非とも情報露出時に出さねば成らないのが、当社が考えた「セット」の中身、 7つの「カリキュラム」です。当社の商品は「役務」です。「物」ではない 。
しかも、「役務」は消化されて初めて商品価値が判明するのです。

 だから、当社商品の宣伝はパンフの中の情報しかないわけです。テレビや冷蔵庫のように具体的な効用を示すことが出来にくい。

 だから相手の、顧客の心理を読んで「商品化価値」を判断して貰うしかない。
そこで「初心者セット」というネーミングと「カリキュラム」を必ず一緒に添えて情報露出する事を考えたのです。

 初期の頃、あるカルチャー企業の教室で10万枚のチラシに私の主張する事を無視して「初心者コース」・・「セット」をはずして、 「カリキュラム」もなしに宣伝したところ
受信が2・30本しかありませんでした。そのころは常に100~200本は当たり前の時期でした。

 その後当社が3万枚のチラシで「初心者セット」とカリキュラムを入れてまいたところ150本以上の反響が有りました。 その後何回言っても、そのカルチャーは同じ間違いを犯してチラシを作成したので、 トウトウいろいろな事件があり、我々の方から撤退を申し入れました。

 さて「ネーミング」は象徴的な意味合いを持っています。 上記は何人かのファミリーには何度も言って聞かせたことですが、まだ伝え切れていない人もいるかと思い書きました。

 何か意見があれば下さい。

学院の土台

1 プロ講師の最低条件且つ最高の講師の資質  以前にこういったと思う。  
  「目の前の生徒さんを好きになること」これは全てに当てはまります。

 私たち自身、逆の立場でも納得するはずだ。
映画「タイタンズを忘れない」は白人と黒人の差別を克服していく物語です。

 その中で印象的だったのは、なかなかうち解けない白人と黒人にコーチはこういった。 それぞれ肌の違う相手に食べ物は何が好きか、両親はどんな生活をしているか、 音楽は何が好きか、何でもいいから聞け!それを俺に報告しろ!報告しないやつは練習を3倍に増やす。いや、4倍にする。

 その後の一つの場面、白人が黒人に、おい!手っ取り早く言うから、 俺様の言うことにさっさと応えろ!親の職業は何だ?・・・・仕事が無いのか?・・・・・と、こんな場面が数多くでてきた。

 これは肌の色が違っても相手を良く知ることにより、 相手が同じ人間生活を同じように感じ、生きて、思いやり、愛する実感を共有すれば人間同士尊重しあえる。ということです

 好きになるこつは、相手を良く知ることから始まる。

 名前を覚え、名字で呼びかけるのは当たり前として、その人が何しに(具体的な目的)、 何のために(最終目的)ここに来ているのか。を講師として熟知しているか? その目的のためにはどういう学習経路が良いのか、を提案できているか?さらに最終目的が、可能・不可能、あるいは修正しなければならないのか。

 お金を頂いている以上講師はプロだ。

 その一番しんどい作業であって且つ最高の喜びの部分が相手を好きになることだ。 その為のコツは相手を良く見る、通り一遍ではなく、本当に相手を良く知ることだ。

 良く知るためのコツは相手に興味を持つことだ。 個人の人間に興味が湧かないような人間は何かのコンプレックスのために正常な部分が変形されている人です。 「興味の固着」が発生してるのです。

 その解決法も相手と交流する以外に手はない。。

存在意義

 人間が生きていく上で、「成長」は常にあると思います。 個人が肉体的精神的停滞する事はおよそ不可能です。人間は生まれて死ぬ。成長はその過程です。 他者に迷惑をかける悪い成長ではなく、他者を喜びあう良い成長を目指したい。

 個人の自由な存在を否定する社会は人間社会といえず、企業の自由な活動を否定する社会も、また正常な社会とは言い難い。

 しかし、現在の社会の変化は、そのスピードにおいて人類が過去の歴史に経験したことのない急激な物です。

 ある集団社会が一つの生活圏を構成し、個人個人がお互いに物理的生存を補い合って生きてこられた中世の村社会では、 顔と顔を合わせての情報確認が可能で、その関係性の中では血縁、地縁、を含め利益共同体として人間の心は、 仕事の役目と個人の位置づけが分離する事無く、全人格がその村社会で認識され、安定的に生存できました

 これは個人も企業も同じでありえました。 しかし、今、現在、特にインターネットの出現による社会変化スピードは、文化そのものを変革しようとしています。

 膨大な情報が圧倒的なスピードで伝達され、社会変化のスピードは村社会、都市社会、国家を突き抜け、地球規模で変革しているのです。 その変化は必然であり、個人、企業もその運命から逃れられない。

 なぜなら、「生きる」というのはエネルギーの流れる、変化する状態を言うのであり、逆にエネルギーが流れない、 変化しない状態を「死」と言うのではないでしょうか。

 個人も企業の存在も同じで、変化しない企業は淘汰されます。市場は常に揺れ動いています。膨大な個人が市場を構成し、 その膨大な個人がそれぞれ一人一人、悩み、喜び、生きているのです。

 それぞれの家族、個人の能力、所得格差など個人の生活環境は一人ずつ違います。

 自己のみの利益は、循環を欠いており、最終的には自己の真の利益にはならない。 自己の利益は他者の利益と繋がっている。真の利益とは他者の存在と分かちがたく繋がっている。 それであるから、その存在が社会から認められ、応援されるのではないでしょうか。

 社会的にその存在が不必要であれば、利益は出ないでしょう。社会から退場すべきで、選手交代です。 その存在が社会的に必要ならば、必ずや社会は応援してくれるでしょう。

 我々はそういう存在を目指します。

ファミリーの皆様へスタートⅡ

スタートⅡです。

 当学院も全国に拠点を置き、組織として大変大きくなりました。 こうなれば、泡のごとく消えるのではなく、全国に根をはり、大きく成長し、発展したいと思います。

 その為に今、我々の会社がなぜ存在しているのか?を明確に全員が認識し、 その存在理由とこれからの当学院の活動目的をも、全員が共通認識したいと思います。

 本当の理由、2000年2月17日に、『さあ出発です。』を発信してから1年と5ヶ月たちました 当時のファミリーは20人もいなかったなー。今2001年8月7日、193人のファミリーです。

 古いファミリーが1人、2人辞めていきました。非常にさみしい。 ここへ来て、もはや理論的支柱なしにファミリー全員をまとめ団結させるのは無理だと悟りました。 原本1人では193人の全員と話し合いには行けないことをやっと分かったのです。

 当学院がなぜ発展しているのか?いや何故、当学院の存在が許されているか? その理由を考えて、我々の存在を充実、発展させる為の礎を作り上げていきたい、と思います

1.物質的充足は人間を救えたか  かつて物不足の時代、あの松下幸之助は便利な物が水道の水のごとく無料に近い価格で提供される状態が実現すれば、 世の不幸はなくなるという水道哲学を唱えた。

 それは、日本の水道はその降雨量と地形により、そのまま飲める水が豊富に存在したからで。 地球上では水にこそ金銭をかけて確保するのが常識の国も多い。その国では水が無料に近い価で豊富にあれば不幸はなくなるはずと考えるだろうか。

 確かに少なくとも水不足による不幸は解決するだろう。 幸之助の物質の水道哲学は、人を便利にする豊富な物が人の不幸をなくす。 一理あると思う。それは水不足の解決はあくまで水不足を解決するのである。幸之助の生きていた当時はそれさえなかったからです。

 が現在、便利な物はその便利さが、その不便利さを解決するのである。 その不便利を克服すればさらなる便利さを求める。それは永遠に繰り返されてきたのが現実です。 飢餓と満腹、又飢餓と満腹の繰り返しか?一面そうだとも言える。

 山登りは頂上に立つことだろうか、いやその課程にこそ、つまり一歩一歩ずつ歩くその課程にこそ喜びがあるとも言える。 しかしそのしんどさは山頂に立つことと、切っても切り離せない関係にあるのではないだろうか。

 幸之助の水道哲学は人間世界の救済のその第1歩を言っているにすぎない。幸之助に影響を与えた最大のものの1つに創価学会がある。

 その寺院的会館施設の大量建設の為に購入すれば済む建築資材製造の製材所をも 所有するという組織の発展性を見据えた壮大さに幸之助は感動し、企画大量生産商品を思いつき研究し実現した。 松下電器の設立に多くの企業から学んだ。  しかし宗教にある偏屈さは彼の合理精神からはとうてい許容できるものではなかった。  特定の宗派や特定の価値観に源をもつ集団の危うさを幸之助は感じ取っていたのだろう。 他人を救うはずの団体や思想が、他者の個性を攻撃する排他性や、人間生理の自然を罪悪視し、 心の病をあえて作り出している現実を彼の合理精神は冷静に感じ取っていたことと思う。

 そしてたどり着いたのが水道哲学である。全ての人間世界に共通する物不足の解消こそ不幸からの解決と考えたのではないだろうか。 現代でも世界のあっちこっちで数円の薬が無い為に生を全うすることが出来ない人々がたくさん存在する。

 その物不足を解消することが人間を救うことだと考えるのは、しごく当然の成り行きである。そこまでは誰でも考え得る。

 しかし彼の偉大さはそれを実践する方法論を考え出し、実行し、実現したことである。 病上の指揮官であることがさらに彼のカリスマ性を高めたのである。

 しかし、さて冷静に考えてみて水道哲学は人を救うだろうか。 それは最初に述べたように人間を救う第1歩ではあるが、全ての解決ではないと思われる。

 水道哲学の完成状態、物が豊富にゆきわたっている状態は現代地球上の一部の地域ではほとんど達成したと思われる。 しかし、その人間を救うという目的は達成されたかといえばどうだろうか。今、人間存在を質的に深く考察できる時代になってきたと思う。

 それは人間存在を縛ってきた物不足が解消できたからとも言える。

 人間の歴史の中で数千年、物不足が人間不幸の第1要因であり、極楽浄土は物が豊富にある状態がそれであると思われてきた。 日本の仏教、砂漠で生まれたキリスト教、イスラム教、等等、第1不幸要因を取り除くことを教えとし目的としてきた。

 物不足=人間存在の危機、物不足の解消=人間が救われる、この単純発想は現在の恵まれた物不足から解放された状態で考えたとき、

人間は救われる存在ではなく人間は幸福になる為に生まれた存在

という概念に変化したのではないだろうか。

 それは人類が数十万年かかって達成できた状態ではないだろうか。 しかし、その到達位置は人間存在の真の意味での本当の自己と向き合い、他の誰でもない自己本来の個性を発言、 実現できるスタートラインについただけのことである。

 さて次のステージはどういうことだろう。 そのステージは人間の様々な関係性を認識し、測定し、分析し、組立て、組みなおし、人間存在の本質を探究していく時代に突入したと思われる。 我々はいまそのステージに立っていると思われる。

 手段として人類文明・文化を築いてきたカルチャー「ギリシャ語のカルトラ=耕す、に由来する」 俗に言う文化教室を根源的に捉え直していきたいと思う。

 田舎町のある地方のお茶やお花のカルチャー講座、ピアノ、バイオリン、ゴスペル等の習い事など、 なんでもよいが、その文化教室に通うという状態は他者よりの影響を求めているということではないだろうか。

 学ぶ、というのは「まねぶ」から転化したものである。つまり他者の技術を自分のものとするためには、 他者のまねからはじまるのが早道、一般的である。模倣は想像の母である。日本語の「教育」という言葉は明治期の教育勅語から使用されている。
英語の「エデュケーション」はラテン語のエデュークから来ているといわれる。
「型にはめる」「引き出す」の意味とされる。幼児は安全や人間社会の掟を覚えさせるために型を教え、 長じてはその人間の個性にある才能を引き出す、2段構えの方法であろう。
アフリカの古いことわざに「ウブントゥー」というのがある。 これは「人間にとって大切なことは人から人へ伝えられる」という意味とされる。 教え、学ぶのは他者との関係で生じる。なぜ?  
それには2つ考えられる。1つは、自己存在の充実、2つめは他者との関係性の充実である。が、この2つは実は同根である。 自己という存在は他人と一対の概念である。

 たとえば、無人島に生まれ、他生物と交わることなくそこらの木の実を食べ一生を終えるとしよう。 その人生には人間として自己を認識できるだろうか?

 人は他の生命体と関係することで、数々の人間的感性が生じるのである。 つまり、人間とは他生命との関係より派生する様々な感情の起伏、形態が心というものを形作るのであり、それが「人間」そのものではないだろうか。

 他生命存在と自己存在はイコールである。その関係なしに、個人はなりたたない。
1つの文明に生まれ、その文明のもと様々な文化を体験し構成員になる。その社会で親和性、所属の欲求を充足する、 その中で、より良い構成員を目指すのは当然である。

 つまり、より良いとは、より他者と自己の関係性の充実である。他者との関係が自己を構成している人間性である。 豊かな人間性とは豊かな関係ということである。この状態の目的意識は2つの側面をもつ。

 1つは関係性のさらなる発展を望む本質的な人間関係の継続である。もう1つは、関係性の断絶である。 後者の意味は他者の支配、もしくは他者の否定である。いずれも他者の個性を無視する閉鎖循環はコンプレックスから生じるとされる。

 つまり個体レベルでの関係性の死がはじまるのである。では、健全な人間性とは?それは他者との健全な関係性のことだと思う。  話を元に戻すと、他に習い、他のまねをする。
つまり一定の技術なり、学問的素養なりを自分に取り入れたい、 ということは社会の中でより良く生きて行くために人間社会の諸習慣を身につけ社会からの認知、評価を受けたい、 というところから来ているのであろう。  
さて、松下幸之助の水道哲学を例に考証してきたのだが、諸君、何の為だと思う?・・・  察しの良い諸君はもうわかっていると思うが。そう、当学院の存在意義をここに理論確立し、発表したいと思います。

『アイ日本総合ビジネス学院』の存在理由

全ての生命と調和を保ち、個々人の豊かな個性の発現、真の自己の実現は人間関係を基礎とし達成することを目的とする。 その為に学び個性の発芽を引き出すいろいろな人間社会の文化を興す。 文化的学習を全世界に普及させることにより、自己と他者との関係を地球規模で豊かに充実させる。 当学院は物不足による不幸と同様、情報不足による不幸を認識する。この不幸を排除することを目的とする。

ファミリーの皆様へ

 いよいよ出発です。

 どこへ?後でわかります。

 各自、自分の本当の夢、実現したい夢を提出して欲しい。 何をしたいのか、具体的に言ってくれ。ただし「三方良し」を原則とする。
①売り手良し、②買い手良し、③世間(社会)良し

 これは大阪の古い格言で商売の成功について言っている。 売り手の利益はあたりまえだが買い手の利益までも考え、必ず買い手側も利益を得られるような取引が良い取引である。

 そういう取引はさらに継続性が高まる。 つまり我々の今の商品で言えばよい授業をすれば買い手である生徒さんは満足し、次に進級してくれ我々に利益をもたらしてくれると言うことです。

 さらに③世間良しとはその取引が社会に許容され世の中にとっても良い取引である。と言うことです。以上を三方良しといいます。

 また、我々の個人個人の夢は各人それぞれ違うと思います。しかし個性の真の発現とその成就は一人では成し遂げられません。

 だから我々は、その各人の夢を実現するための環境を整え、準備するのが会社の役割だと考えます。 そして一番大事なことは個人と全体は別々のものではなく、相互に関係し合うことで個人は個性を発揮し、 結果的に全体=社会が発展しその為、有意義な集団性が生まれるのです。

 例えば熟年クラスのA氏は週1回必ず来校されています。今まで頭の中に白いモヤがかかっていたそうです。 それが少しずつ晴れ、いつからかパソコンを操作することに少なからぬ喜びを憶え(見い出し)、もう2年も通学されています。

 残り少ない人生、本当に80才前後であればもう秒読み段階でしように、 その大切な、本当にかけがえのない命の残り時間に対して、 我々にお金を提供してくれ、年若い我々を「先生」と呼んでくれ、我々を生活させてくれている。

 これらを正々堂々とあなたは受け入れられるか!我々が正々堂々と受け入れる為にはその価値に見合った商品を提供しなければ、 つまり良い授業をしなければならないと考える。

 さて、話を初めに戻します。今、準備が整ったので、出発しましょう。

 我々の社会上の企業活動の成績は大体金銭で計られます。もちろん金銭で計れないものもたくさんあります。 ちょっとした親切、思いやり等。しかし生きていく為には金銭が必要です。多ければ多い程、行動の自由が増すのも事実です。 それは幸福に到るチャンスが多くなるということです。お金が多ければ幸せになるとは限らないとよく言われます。それはその通りです。  お金を儲ける為には社会的に、個人的に人々に役に立つ行為をしなければなりません。  さて、出発するにあたり必ず成功する為の注意を少し書いてみます。

 ① 商品の分類:我々の提供できる商品を細かく分類する。
         ・入門 ・入門セット ・ワード ・エクセル ・熟年コース ・資格取得コース          等々・・・自ら開発しても良い

 ② 場  所:どこで開校、提供すれば最も良く、効率的か?
         直営校・カルチャーセンター・コープ・公民館・等々

 ③ 宣  伝:効率的、より安く、多くの人に我々の活動を知らせることが出来るか。          チラシ・新聞広告・広報・地域の回覧版・営業広告・等
         利益を上回る宣伝費では会社はつぶれる。

 ④ システム:どういう形で授業をすれば良いか。
         個別、集団、グループレッスン、通信 フリーコース・等々

 ⑤ 誰  に:商品を必要としている相手をイメージ(特定)できるか。
         資格=学生、就職希望者  エクセル=会社員の職種では××

 以上色々なことが考えられる。しかし、一番大切なのは自分自身の意欲です。

 例えば「長野で学校を開きたい。」ついでにスキーもしたい。山登りもしたい。 露天風呂にも入りたい。いい温泉を見つけたら原本先生を呼びたい。ついでにたかってお金を使わずに楽しみたい。

 この意欲が強烈であればさまざまな困難は我々全員が駆けつけ、助け合いで必ず解決できます。

 さてさて。どこでするか。何をするか。どんどん言ってください。

 〆切は2月末。様式は、言葉でも書類でもOK。  提出先は直接 原本に。直接話すほうがいいやすい人は21:00以降であればいつでもOKだから、電話で予約を。  書類であれば三宮1号館 原本デスク に。メールは三宮1号館へ。電話でもOK。